■6月13日午後:個人・共同研究発表2
6/13(土)開催のオンライン研究発表会(個人・共同研究発表2)にて発表が行われる発表要旨は以下の通りです。春季大会中止に伴い、以下の発表者はここに要旨を公開することをもって、春季大会で発表を行ったものとみなします。
要旨の本文は、個人・共同研究発表者発表者からいただいた原文をそのまま掲載しています。
企画委員長 福間良明
6月13日 14:00-14:30
日本におけるニュースプラットフォームの成立
下山進(慶應義塾大学)
【キーワード】ヤフー、あらたにす、読売新聞、日本経済新聞、朝日新聞
【研究の目的】
日本の新聞が、2000年代以降、ニュースの供給源としての役割を、プラットフォームであるヤフーになぜ、とって変わられることになったのかを、各社の政策決定にかかわった当事者に取材をすることで明らかにする。
【先行研究との差異】
日本の新聞の今日の苦境を探る意味でも、ヤフーによるプラットフォームの成立は非常に重要なポイントであるが、CiNiiで「プラットフォーム」「ニュース」で引いても、ヒットするのは、関谷道雄による「越境するローカル 交錯するメディア:プラットフォーム展開で放送はどう変わるか」(放送研究と調査 68(5), 26-45, 2018)だけだ。この関谷の記事はすでに成立してしまったヤフーニュースやラインニュースを使って、既存のメディアがどのようにそのコンテンツを流通させるようになったのかを描いたものであり、そもそものプラットフォームとしての成立について調査したものではない。
【研究の方法】
ヤフー、朝日新聞、日本経済新聞、読売新聞、共同通信、電通、地方紙などで、2000年代半ばからのプラットフォームビジネスにかかわった当事者たちへの直接取材。そこでえられた社内資料、メール、社内報等を使う。
【得られた知見】
以下の事実を調査により明らかにすることができた。
2000年には売上が50億円だったヤフーに対して、読売新聞社の売上は約4000億円であり、そもそも読売オンラインの記事をヤフーに出すことの重大性について、当時の読売取締役会は認識していなかった。
ヤフーの売上が2005年に1000億円を超えるようになった時に、読売新聞社長次長の山口寿一の発案で、社内に新聞社の手によるプラットフォーム作成のためのチームができた。
2006年1月には、共同通信が地方紙を集めて、プラットフォーム作成のための研究会がたちあがっていた。
当初山口寿一は、地方紙もいれた連合でプラットフォームを立ち上げることを考えていたが、すでに、共同通信を中心にしてのちの「47ニュース」につながる流れができていることを知り、断念、日本経済新聞に接触を図る。
日本経済新聞で山口から連絡をうけたのは当時のデジタル部門の責任者である長田公平、長田は、朝日にも連絡をとることを提案し、ここに朝日、日経、読売の連合の形ができた。
当時、ヤフーにニュース提供をしていたのは読売新聞社だけだった。その読売が、ヤフーをぬけることが、三社共同サイトの最初からの課題だった。
地方紙の連合サイト「47ニュース」、朝日、日経、読売の連合サイト「あらたにす」ができた時に、ヤフーは対抗策としていくつかの手をうった。
ひとつがトラフィックバック。これは、ニュースの下に、関連ニュースを表示し、それにはリンクをはって、踏めば提供社にユーザーが戻るようにしたもの。
そしてヤフーに入った広告を飛ばして、提供社のサイトで表示をし、レベニュー・シェアでわけあうという「アド・ネットワーク」。
さらにソフトバンクの孫正義が読売新聞グループ本社の社長内山斉のもとを訪れ、情報提供料の値上げを申し出たこと。
これらの施策により、読売新聞はヤフーをやめられなかった。
さらに日本経済新聞は2010年3月からデジタル有料版をスタートさせた。これにより「あらたにす」からリンクで飛ばせる日経の記事自体が少なくなった。
サイト自体が、ネットを目的としたものではなく、新聞をネットでやろうという発想があったため、PVもふるわず、2012年2月29日に「あらたにす」は終了した。
このようにして新聞社の連合が独自にニュースのプラットフォームをつくるという野望ついえて、ヤフーがニュースのプラットフォームとしての地位を万全のものにした。
これらの調査によって明らかにされた事実から、新聞社がポータルをつくりえなかった理由は、①新聞社が連合体をとっても各社の思惑が違い、プラットフォーマーへの提供をやめられなかったこと② プラットフォーマーが技術革新と圧倒的優位のpvを使って、トラフィックバックで、客を戻したことで新聞社の連合が崩れたことだということがわかった。
<<戻る
6月13日 14:35-15:05
「責任」の社会的構築
-マス・メディア言説における責任帰属に関する一考察-
余偉(法政大学大学院 院生)
【キーワード】責任帰属、帰属理論、社会構築主義、レトリック、フレーミング
【研究の目的】
マス・メディアにおいては責任の所在を論じる報道がしばしば行われる。因果性、また法律や規範に基づく責任帰属とは異なり、マス・メディア上での責任帰属は多様な方向性を有している。本来、同じ事実に基づいて責任を帰属させれば、同じ結果がもたらされるはずである。しかし、マス・メディアにおいて、同じ出来事に対して異なる責任帰属が行われることがある。この現象をどのように理解すべきか、またどのように分析すべきかが本報告の問題関心である。本報告では、マス・メディア上での異なる責任帰属の背後にあるメカニズムを明らかにしたい。また、マス・メディアにおける責任帰属の相異を研究対象にするとき、どのような手法を用いて分析を行うかべきかを検討する。
【先行研究との差異】
日本においてマス・メディア自体が有する責任についての議論は数多く蓄積されてきたが、マス・メディアで報道される多様な「責任」言説に関する研究は管見の限り行われていない。多様な「責任」言説を包括的に考察するための準備作業として、報告者は認識論や方法論的な問題に着目した。
【研究の方法】
理論研究であることから、本研究では主に文献調査を行った。それらの文献は三つのカテゴリーに分類することができる。まず、アイエンガーの『誰か責任を取りますか?』とフレーミング効果に関する文献である。次に、ハイダーの帰属理論に関する社会心理学的文献である。三つ目は、社会構築主義に関する文献である。本研究ではこれらの文献を比較検討しながら、理論的な観点からの貢献を試みた。
【得られた知見】
1 アイエンガーの研究の限界
アイエンガーの『誰か責任を取りますか?』は、フレーミング理論における先駆的な研究と位置づけられている。この研究は、「エピソード型/テーマ型」フレームが、社会問題や政治問題に対して、オーディエンスの側による責任帰属の結果に影響を与えることを示唆している。
しかし、アイエンガーが行った実際の事例研究において、各社会問題に対する「エピソード型/テーマ型」フレームの効果は一貫していない。そこにはフレームの定義に起因する問題があると考えられる。「エピソード型/テーマ型」フレームはいずれも出来事に対する視野を限定する境界線としてのフレームであり、内容や文脈に対する理解を組み立てる潜在的構造としてのフレームではない。フレームの効果を観察しやすくするために、アイエンガーの研究は、責任帰属に影響を与えうる他のフレームを等閑視してしまったのである。
2 帰属理論の誤り
具体的な内容や文脈の作用が考慮されなかった要因の一つは、アイエンガーが引用したハイダーの帰属理論に求められる。ハイダーらの帰属理論には二つの問題があると報告者は考える。
一つは、帰属理論が、責任帰属を他者の行為に対する合理的な判断と仮定し、帰属結果に対する判断者自身の影響を考慮しなかったという点である。帰属理論によれば、責任帰属の結果が合理的な判断と異なる場合、「帰属バイアス」、また「根本的な帰属の誤り」として理解されてしまう。この点について、報告者は、責任判断過程モデルを総合的に考察した膳場百合子らの研究を参照し、合理的な判断に基づく帰属理論の限界を示した。その限界は、帰属理論が責任帰属過程における判断者の能動性を過小視していた点にあると考えられる。
もうひとつは、帰属理論が責任を常識的な知識として捉え、判断者のダイナミックな理解を重要視していないということである。筆者は、法学者である石村善助らの責任帰属研究を考察し、常識に基づいた責任帰属の問題をより詳しく考察した。その上で、常識的な責任概念に基づく帰属理論の限界を克服するため、報告者はケネス・ゲーゲンやヴィヴィアン・バーなどが展開する社会的構築主義のアプローチに依拠し、責任帰属過程における社会的関係性の重要性を指摘した。
3 社会構築主義のパースペクティブへの転換
社会的構築主義に依拠する場合、マス・メディアにおける責任帰属をどのように分析すべきかという問題について、報告者は以下のように結論をづけた。
マス・メディアにおける責任帰属は、単に既存の社会的規範や法制度によって決められるものではなく、責任の定義過程の一環として、様々な相互作用によって構築され、異なる帰属過程や結果を生じさせるのである。
研究手法については、他者を説得するためのクレイム申し立て活動に関する研究に着目し、慣用化されたレトリックの分析という手法の有用性を確認した。また、レトリック構成がもつ普遍性とフレーム構築が有する特殊性との関係に注目し、この二つの研究手法を取り込むことがマス・メディアにおける責任帰属を分析するうえで有効だというのが本研究の結論である。
<<戻る
6月13日 15:10-15:50
日本マス・コミュニケーション学会における「ジェンダー研究」の変遷に関する歴史的考察
鄭佳月(東京大学)
李旼胄(東京大学)
デニソヴァ・アナスタシア(東京大学大学院 院生)
林香里(東京大学)
【キーワード】日本マス・コミュニケーション学会、メディア研究、コミュニケーション研究、ジェンダー研究、研究者
【研究の目的】
本研究は日本マス・コミュニケーション学会の活動を振り返る一環として近年のジェンダー研究の拡がりに着目し、本学会におけるジェンダー研究の取り組みを歴史的に考察することで、その変遷を明らかにするものである。本研究では各時代のジェンダー研究の特徴や傾向を幅広く把握することを目的とし、ジェンダー・セクシュアリティに関する視点を有する研究を広義のジェンダー研究とみなした。調査期間は学会名称が日本新聞学会から日本マス・コミュニケーション学会へと変更された1990年代から2019年末までとした。
【先行研究との差異】
本学会のジェンダー研究の展開については学会史とジェンダー研究の双方から言及されてきた。前者には、学会創立50周年記念シンポジウムでのメディア研究、コミュニケーション研究の回顧が挙げられる。ここでは20世紀後半に現れた市民的立場からの研究という潮流の中、1970年代頃に「女性とメディアという問題提起」がされたと述べられている(内川芳美ほか、2002、「日本マス・コミュニケーション学会50年:『回顧と展望』」、『マス・コミュニケーション研究』、61号)。また後者には、「ジェンダーとメディア」研究に関する四方由美の論文が挙げられる。この論文では日本の「女性とメディア」研究の本格的開始を示す事例として、1980年代後半から本学会で「女性とメディア」に関するワークショップが行われるようになったことが取り上げられている(四方由美、2004、「『ジェンダーとメディア』研究におけるメッセージ分析」、『マス・コミュニケーション研究』、64号)。
このとき本研究は、前者と後者の視点を架橋するものであると考えている。つまり、日本マス・コミュニケーション学会の歴史にジェンダー研究の具体的な取り組みを位置づけることで、その中長期的なダイナミズムを捉えることを目指すものであるといえる。そのため本研究では、本学会におけるジェンダー研究の幕開けとなった1970年代、研究が本格化した1980年代~90年代の状況を踏まえ、1990年代から2019年末までを調査期間としジェンダー研究に関する研究動向について調査を行った。
【研究の方法】
『マス・コミュニケ―ション研究』(1993年~2019年)、『日本マス・コミュニケーション学会報』(1991年8月~2019年12月)を調査資料とし、学会誌の掲載論文、大会での個人(共同)研究発表、シンポジウム、ワークショップについて全ての件数を調査した上でジェンダー研究を抽出し、量的調査および質的分析を行った。
【得られた知見】
得られた知見は主に以下の5つである。
(1)調査対象の各項目について、全ての件数とジェンダー研究の件数を調査したところ、全項目でジェンダー研究は件数全体の1割に満たなかった。このことから本学会のジェンダー研究は量的に少ないという知見が得られた。
(2)掲載論文については、1990年代と2000年代とでジェンダー研究の傾向が異なることがわかった。1990年代は理論研究と事例研究が同程度で並んでいるのに対し、2000年代に入ると理論研究が減少し、女性向けコンテンツや主体的オーディエンスとしての女性等を対象とする事例研究が目立つようになった。著者の所属先にはローカル的な偏りもみられた。
(3)個人(共同)研究発表については、各ジェンダー研究を内容に応じて分類したところ、2000年代は女性表象に分類される研究が多いことがわかった。発表者の所属先にはローカル的な偏りもみられた。
(4)シンポジウムについては、全ての件数の内ジェンダー研究に関するものは3件に留まり、2回目から3回目のシンポジウムまでは10年以上の開きがあることがわかった。
(5)ワークショップについては、1990年代からジェンダー研究に関するテーマが続けられてきたが、毎年連続して行われているとは限らず期間が空くこともあった。このことから本学会において、ジェンダー研究は分野として十分定着しているわけではないことが推察された。
一連の作業から本研究では、本学会におけるジェンダー研究を可視化することにより、少ない件数の中にもいくつかの特徴と傾向が見られることを明らかにした。本研究の試みは本学会内のジェンダー研究史に留まるものではなく、マスメディアという制度と女性の関係、研究者というアクターとジェンダー研究の関係、ジェンダー研究と学会という組織の関係を抽象的に考察するための一つの事例となり得ると考えている。
今後は日本のメディア研究史におけるジェンダー研究の変遷をより多角的に考察するため、海外の学会動向との比較研究へと展開することも検討している。また日本新聞学会時代にも射程を広げ、各時代の研究者にインタビュー調査を行う等、世代を超えた研究へと活動を開いていきたい。
<<戻る