2020年春季オンライン研究発表会
個人・共同研究発表要旨1

■6月13日午前:個人・共同研究発表1

6/13(土)開催のオンライン研究発表会(個人・共同研究発表1)にて発表が行われる発表要旨は以下の通りです。春季大会中止に伴い、以下の発表者はここに要旨を公開することをもって、春季大会で発表を行ったものとみなします。

要旨の本文は、個人・共同研究発表者発表者からいただいた原文をそのまま掲載しています。

企画委員長 福間良明


6月13日 10:00-10:30

「線画」――明治末期から1945年に至る「アニメ」の呼称とその概念の変遷

北波英幸(関西大学大学院 院生)

【キーワード】アニメ、アニメーション史、映画史、内務省、映画法

【研究の目的】

 本研究は、日本国内でアニメーション映画を表す呼称「線画」が使用されていた期間における概念の変遷を検討する。映像コンテンツを中心に、送り手―流通者―受け手が織りなすメディア空間の生成史としての「アニメ史」を記述するためである。

NHK朝の連続テレビ小説『なつぞら』(2019)では、「日本のアニメーション草創期」として、戦後すぐの劇場空間に「漫画映画」が、テレビ出現とともに「テレビまんが」が作られる過程をストーリーの時間軸に充てていた。それは1950年代から1970年代半ばまでの時期である。しかしアニメーション史の先行研究においては、日本における国産商業アニメーション映画史が1917(大正6)年に始まるとされる。すなわち、下川凹天『凸坊新画帖 芋助猪狩の巻』(天然色活動写真株式会社)、北山清太郎『猿蟹合戦』(日本活動写真株式会社)、幸内純一『なまくら刀』(小林商会)の3作の公開年である。『なつぞら』と先行研究の見解を合わせると、1910年代から1960年代までの半世紀が「草創期」となる。だが映画がサイレントからトーキー、カラー化など様々な技術的発展を遂げたこの時代、そういったメディア空間のうねりの影響を全く受けず、アニメーション映画のみにスタティックな「草創期」が続いたとは考えにくい。

こうした曖昧さの原因は、現在のコンテンツとしての「アニメ」を構成する個々の要素から別々に時間を遡り、観察者ごとに個別基準で選択した要素を古い順に並べ直す史観形成にあるのではないか。それは現在の「アニメ」の姿を「完成した極み」として捉え、それまでの史実を「『今』と比べると、発展途上の過去のもの」と見なす進歩史観に囚われていないだろうか。だが、それでは過去の「アニメ」がその時代の最新メディアとして、どのようなメディア環境や社会状況の中で受容されたかという視座には迫れない。そこで本研究ではまず現在との性急な比較を避け、アニメーション映像が「線画」と呼ばれていた時代に絞って論考する。これによりその折々の人々が「線画」をどのように受容したのか、また現代の「アニメ」に通じるもの、通じずに消えたものが見えてくるはずである。

【先行研究との差異】

 メディア空間としての「アニメ」史を新たに検討する上で、新たに「線画の時代」を提案する。現代の典型的な「アニメ史観」とは、「『アニメ』は、かつて『テレビまんが』と呼ばれ、テレビの無い時代は『漫画映画』と呼ばれていた」という解釈である。ところが明治期から「ポンチ」などと呼ばれていたメディアが、「漫画」という現代に使われる意味に近い呼称となって、大衆に膾炙したのは1920年代半ば以降である。

つまり国産商業アニメーション映画が初めて公開された1917年には、「漫画」という言葉自体、広まっていなかった。興行上は「凸坊新画帖」や「半画面」というような呼称も存在したが、映画雑誌における情報提供や批評の面で、アニメーション映画出現以前から映画のマテリアルとしての静止画には使われていた「線画」という語に、動く絵が新たに含まれ、継続使用された可能性が高い。こうして「遡上する歴史」だけではなく、先行する時代におけるメディア実践も視野に入れ、より立体的な「アニメ史」を検討する。

【研究の方法】

 20世紀初頭から第二次世界大戦の終わる1945年までの新聞全国紙の言説研究および、「線画」の概念変化に関連があるとみられる時期の雑誌・書籍言説も参照する。また可能な限り、作品自体も鑑賞する。これらから「線画」の時代とそれを取り巻く人々や社会の持つ概念変容のダイナミズムを分析する。

【得られた知見】

 20世紀初頭から1930年代を経て、1945(昭和20)年に至る「線画」の軌跡は、大衆強化と娯楽のせめぎあいを示す枠組として有効である。20世紀初頭、社会運動家・高松豊次郎による『社会パック』という政治演説映画興行において、「線画」が「絵」をマテリアルとしたフィルム作品として現れる。やがて1910年代に海外から輸入されたアニメーション映画とそれに触発された国内作品を示す語となる。1920年代半ばからは印刷物から「漫画」という言葉が勃興するが、同時期に娯楽アニメーション映画をも表す言葉となり、「線画」は主として教化、社会教育を担うものという概念をまとい始める。ことにこの時期に起きた映画のトーキー化は「トーキー漫画」という言葉をも生み、アニメーション映画のありようを大きく変えた。この「娯楽の漫画/教化の線画」に分けられたジャンル区分は、1930年代に映画メディアが総動員体制に組み込まれていく中で、より強化される。戦争賛美や兵士教育というテーマと「線画」は深く結び付き、結果的に第二次世界大戦の終焉とともに呼称としての役割を終えたと考えられる。

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6月13日 10:35-11:05

大衆読者の消費的発見と政治的動員
-1930年代中国における読書雑誌のメディア史-

比護遥(京都大学大学院 院生)

【キーワード】読書雑誌、メディア史、中華民国、出版大衆化、消費と政治

【研究の目的】

 従来の知識人に限定されない広範な読者集団としての「読書界」の出現が意識されるようになった1930年代頃の中国において、出版物の消費者として見出された読者に政治的期待が寄せられるようになったメカニズムはいかなるものであったかを明らかにする。読書という強い動機付けを必要とする行為実践への注目は、総力戦を契機とした宣伝国家(propaganda state)の建設が急がれた時期における政治コミュニケーションの特性を究明することにもつながっている。

【先行研究との差異】

 欧米に端を発する読書史の関心は近年中国にも導入されているが、中華民国期については概説的な段階に留まり、特に政治との関連についてはほとんど触れられていなかった。具体的な思想の内容ではなく、読書という行為の形式そのものがいかに政治的に編成されようとしたかを問う点に本報告の視点の新規性がある。また、具体的な分析対象とする読書雑誌についても、書誌的な整理を行う初歩的研究に留まっており、時代背景を考慮に入れた具体的な言説分析は行われていなかった。

【研究の方法】

 1930年代に同時多発的に創刊された書評や読書論を主な内容とする読書雑誌を分析の素材とする。特に1930年末から1931年初頭にかけて創刊された5誌(『読書月刊』『中国新書月報』『書報評論』『読書倶楽部』『読書雑誌』)を集中的に通読し、雑誌の性質や読書そのものについて論じた記事において、複数の雑誌に共通して現れる言説のパターンを抽出して、メディア論の視点から整理する。

【得られた知見】

 古典を読むという旧来的な意味の「読書」に限定されない開放性を謳った読書雑誌は、そのメディア形式そのものが出版大衆化の産物である。「何を読むか」が自明ではなくなるなかで、良書と悪書を識別して読みたいという大衆読者の需要にこたえたものだった。そのことは、ほとんどの読書雑誌の創刊辞において、「読書界」と「出版界」が乖離している現状を克服し、適切な読書指導を行うことが謳われていることから確認できる。知識人により構成される「出版界」の内部事情を固有名詞で輪郭付け、読者の上昇志向を喚起することも行われていた。

読者の囲い込みのために会員割引を行う読書会という制度と多くの場合結びついていたことからも明らかなように、低俗な出版広告が氾濫する消費主義的状況を批判していた読書雑誌自体も、市場経済において売れることを条件としたものである。その自己矛盾は、『書報評論』と『読書月刊』との論争において同時代的にも既に認識されていたものであるが、このことは、読書指導が上からの押し付けとしてではなく、読者からの自発的な購読行動を前提としていた逆説的な証拠でもある。1930年代という時代背景から必然的に読書指導機能は政治と結びつけられたが、そこにおいても原理は同様であり、強制的な動員としてではなく、政治的知識を自ら学習しようとする主体性を前提としていた。

 読書指導機能を政治転用した「読む」行為への方向付けは、救国のための政治行動と直接結びつく「生きた本」のみを選択して効率的に読むことを求めるという形で行われた。このとき、読書そのものに内在的価値があるとする「読書のための読書」論は、エリート主義的な趣味的読書であるとして否定される。もともと左翼知識人を中心としていた『読書雑誌』だけでなく、出版の中心地である上海が戦禍を被った1931年初頭の第一次上海事変以降は、文芸寄りであった『読書月刊』なども同じ傾向を示すようになる。創刊当初の読書論を批判しつつ、目的から手段へ、個人から国家へ、エリートから大衆へ、学校から生活の場への転換が図られた。

報告の最後の部分では、ここでの転換の後の時期への射程を検討する。国民党系の文化団体が主催した1935年の読書運動は、主体的読者への政治的期待が左右双方から高まった証左であり、やはり消費主義的な手法を用いつつも、同時代の日本の総力戦体制成立を意識した政治動員の意図が明確であった。とはいえ、広範な知識人の取り込みを狙った運動であったために、それを契機とした論争では「読書のための読書」論も排除されなかった。そのことを激しく批判した共産党地下党員を中心とする『読書生活』は、「生きた本」を「死んだ本」から区別して政治的行動を求めるレトリックを繰り返した。このレトリック自体は中華人民共和国の成立後にまで引き継がれるものであり、政治的実用性の観点からの効率的な読書が一貫して要求されるようになるのであった。そのイデオロギーの内容において反資本主義であっても、形式における連続性がある。

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6月13日 11:10-11:40

NHK『中学生日記』にみる青少年への社会的関心の変容

王令薇(京都大学大学院 院生)

【キーワード】『中学生日記』、公共放送、青少年問題、教育改革、世論

【研究の目的】

本稿の目的は、NHK『中学生日記』(以下、『日記』と略称する)における「リアルな中学生の日常」と、その「日常」に対する社会的関心の変容を明らかにすることである。その上で、それらの変容と教育改革の動向との関係を歴史的に考察しつつ、教育をめぐる「国民的な合意」の形成において『日記』が果たしうる役割を検討する。

【先行研究との差異】

この放送史上重要な番組を扱った、とりわけその全体像を考察する学術研究はほとんどない。そのほか、本研究の新規性は下記の3点から論じることもできる。

第一に、教育番組に対する研究で多用されている知識教育の視点からではなく、社会教育番組『日記』の役割を、青少年教育のあり方について視聴者に考えさせるものとして捉える。第二に、青少年問題の表象の変容に関する研究は行われたが、青少年に対する社会的な関心はいつから高まっており、いつから薄れていったのかは検討されていなかった。本研究は『日記』の歴史に対する分析からその問題を明らかにした。第三に、教育改革に関する先行研究では、1980年代半ばの臨時教育審議会以後、教育改革が前提としてきた「国民的な合意」がその実体を伴ったものではなく、「個人的な印象や体験に基づく主張」にほかならないという指摘(苅谷剛彦『教育改革の幻想』2002)がある。ただし、それらの主張が「国民的な合意」となっていく中でメディアの役割はこれまで問われていない。本研究は、青少年教育のあり方に関する議論に一つの認識枠組みをを提供しつづける『日記』の内容を分析することで、NHKの教育をめぐる「国民的な合意」の形成において果たしうる役割を検討した。

【研究の方法】

研究方法に関しては、主として内容分析と歴史的アプローチを行う。

内容分析について、効率を上げるため、本研究では、日本放送教育協会の月刊機関誌『放送教育』に掲載された『日記』のあらすじ(1977~2000年度)とテレビドラマデータベースに載せた番組の広報資料(2000~2012年度)を資料として『日記』の内容を分析した。

歴史的アプローチについて、メディア史的アプローチの有効性を、佐藤卓己(2005)は「メディアの長期に及ぶ影響を分析するために、実験調査的な手法は困難なので、歴史的アプローチを採用するほかない」と指摘した。ゆえに、本研究は、歴史的アプローチから『中学生日記』の異なる時代において果たそうとする役割を考察することで、その社会教育的意義が認められた理由を明らかにすることができると考える。一次資料として番組制作者の言説と『日記』の映像資料、二次資料として新聞記事、『日記』の出版物と関連番組の映像資料等も扱う。

【得られた知見】

1970年代において、教育をめぐる議論を更に活発化させるため、学歴社会、管理教育や選別教育を批判する『日記』が作られた。教師や親も、『中学生日記』を通じて受験競争、管理教育や選別教育を批判的に捉えていた。当時の中学生を取り巻く環境には問題が山積していると認識されつつも、解決策が見出せないという暗い「リアルな中学生の日常」が番組において構築されていた。

1980年代前半、暴力やいじめ等の青少年問題の社会問題化とともに、中学生の成長のための「個性重視原則」を方針とした教育改革が必要であるという認識の枠組みは日本社会の多数派に支持されるに至った。それを背景に、制作者は詰め込み教育への批判と家庭の教育力の回復といった「多数派的」な意見を番組に反映させた。また番組の内容も変化した。学校と家庭の問題は、依然として中学生の悩みと問題行動の根源として捉えられていたものの、その一方で、悩みを抱え続けるのではなく、大人の助けによる問題を抱える中学生の立ち直りが『日記』において強調されるようになった。

2000年代になると、「ゆとり教育」の実施と中学生問題の沈静化のために、「リアルな中学生の日常」に対する人々の認識も変化していき、次第に「多数派」の学校イメージの基盤そのものが崩れていった。よって、これまで青少年教育をめぐる議論の「多数派」を代弁し続ける『日記』も方向転換せざるを得なくなった。番組では、中学生の悩みに取り組む主体は大人から中学生へ変わり、中学生の能動性がより一層強調されるようになった。

要するに、本研究の分析からいえることは、『日記』は1972年度から2002年度まで、青少年教育に関心を持つ人々の普遍的な見方、とりわけ1984年度以後、教育改革が前提としてきた「多数派的」な見方を社会に提示し続けていたという事実である。そして2003年度以降、教育改革の問題点が露呈し、『日記』はその使命をいったん終えていた。(付記:本研究は 2018 年度第 2 回 NHK 番組アーカイブス学術利用トライアルによる研究の一部である。)

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6月13日 11:45-12:15

アメリカ合衆国の沖縄マスメディア調査

吉本秀子(山口県立大学)

【キーワード】アメリカ合衆国、沖縄占領史、社会調査、USIA、メディア政策

【研究の目的】

 アメリカ広報文化交流庁(United States Information Agency, 以下 USIA)は、1957年、日本を含むアジアの主要都市で「マス・メディア調査」を実施した。そのうちの一つが米施政権下の沖縄で実施されている。沖縄の人々が新聞・雑誌・ラジオ・映画などの各種メディアをどう利用しているかを調査したもので、戦後沖縄における初の本格的メディア調査であった。調査を実施したのは、沖縄にあったUSCARで、USIAの海外拠点として東京にあった合衆国情報サービス(USIS)との連携で行われた。本発表は、この沖縄マス・メディア調査の概要を明らかにし、沖縄で米国が本調査を実施した背景を考察する。

【先行研究との差異】

 1953年1月に成立した米アイゼンハワー政権はメディア関係者を大統領補佐官を採用するなど、メディアを政策実現のために積極的に活用したことで知られる。同政権が同年8月設置したUSIAは、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)などの国際放送を運営したが、これらの広報活動のほかに、メディア状況や世論に関する調査ならびに広聴活動を世界各地で行った。USIAについては、ニコラス・カルの研究で全体像が明らかになりつつあるが、主として先行研究はUSIAの情報発信活動すなわち広報活動に焦点を当ててきたと言える。これに対し、USIAが海外で行ったマスメディア調査などの広聴活動については研究がきわめて少ない状況にある。

 1950年代から1960年代にかけて、USIAは東京を拠点に日本でも各種調査を実施した。東京を拠点とした調査については、井川充雄(2012)が『占領する眼・占領する声』(土屋由香・吉見俊哉編)の中でVOAリスナー調査に言及している。沖縄調査については、大城由希江(2013)が「琉球列島米国民政府メディア調査資料の紹介」で概要紹介をしているが、実施主体および実施過程に関するまとまった研究はまだない。そのため、このようなマスメディア調査が、どのような目的と過程を経て実施されたかについては未解明である。

【研究の方法】

 本研究は、1957年から1957年にかけて、沖縄で行われた「マス・メディア調査」の実施過程を一次資料に基づいて実証的に解明する。これにより、米国の対外情報政策が単に米連邦政府職員のみで実施されたのではなく、日本および沖縄の行政府と企業が関与して実施された過程が明らかになると思われる。

 本研究は主として米側公文書の検討に基づいている。具体的には、沖縄マスメディア調査が保管されているUSIA文書ならびにUSCAR文書に基づき、USIAが沖縄でどのような対外広報広聴政策に実施し、米国の統治組織であったUSCARと琉球政府の協力を得て調査が実施されたのかを実証的に解明する。

【得られた知見】

 沖縄で行われたマス・メディア調査は、アイゼンハワー政権期に米国で盛んに行われていた社会調査の方法を東京の調査会社に伝えただけでなく、そのノウハウを沖縄の調査員に伝授することになった。同時期に再編されたUSCAR広報局は、調査結果を参考にしたと思われる雑誌を創刊、テレビ番組の制作に関わるという多彩なメディア活動を展開した。1957年から1960年にかけて広報局が行った多彩なメディア関連事業には、メディア政策を重視した同政権期の特徴が観察できる。

 しかし、実際の制作現場で使われた言語は、英語ではなく日本語だったことから、USCARの担当者が本当にメディアを監視できていたのかは疑問である。言語の違う外国の土地で、その方針を具体化するために必要なのは、現地語のできるスタッフと現地の文化に精通した専門スタッフである。米国は東京の調査会社に調査を全面的に委託することになった。詰まるところ、メディア調査は日本語のできる人材に頼らざるを得なかったのである。アイゼンハワー政権期にUSIAが担った対外情報政策は社会科学の調査方法を現地に伝えたが、同時に、メディア政策の実施主体を現地化せざるを得なかったと言える。当時の沖縄は米国の占領下にあったが、メディア調査およびメディア政策の実施過程を通して、分断されていた東京と那覇の距離が実質的に近づいていくことになった。

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