春季大会の個人・共同発表、ポスター・セッション採択者の発表要旨は以下の通りです。春季大会中止に伴い、以下の発表者はここに要旨を公開することをもって、春季大会で発表を行ったものとみなします。なお、6/13(土)開催予定のオンライン研究発表会で発表が行われるものについては、オンライン発表をご参照ください。
要旨の本文は、個人・共同研究発表者、ポスター・セッション発表者からいただいた原文をそのまま掲載しています。
企画委員長 福間良明
インターネット時代における主流メディアの影響力について
-中国「女漢子」をめぐる意味闘争を中心に-
焦贇(慶応義塾大学大学院 院生)
【キーワード】主流メディア、ポスト・メディア、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー
【問題意識・先行研究との違い】
「女漢子」とは、男性に頼らず、常に女性一人ではできないと思われていたことも自分一人で完成させる強い女性を指す。それは社会通念的に、いつも非難されている「女らしくない」タイプの女性を改めて肯定的に称賛するプラスの意味を含むをも思われる。そのため、「女漢子」を男女平等意識の表現と思われ、それを自称する女性が増えて、2013年7月からインターネットで「女漢子集中地」などのコミュニティが形成した。すなわち、「女漢子」は単なる流行語ではなく、ある種の「文化」にもなっている。
また、「女漢子」の流行にしたがって、そのことばはインターネットニュースを代表とする主流メディア報道で使われる。しかし、主流メディア報道における「女漢子」の露出は、中国の支配的価値観が男女平等意識を内面化したと意味しない。その結果、中国の主流メディア報道における「女漢子」には意味変化というプロセスが存在している。
従来のジェンダー研究の視点は、女性をさまざまな形で抑圧している社会状況を前提とし、主に女性を「被害者」の地位に位置づけ、「女性がなかなか管理職につけなかったことやDVなど女性に関わりの深い社会問題を重視されなかった」ことを通してマス・メディアを批判していた。
しかし、情報が多方向で即時的に交換できるインターネット技術の普及と市民ジャーナリズムの展開に伴い、女性が自分で声を出さない「被害者」でなくなった。特に中国の場合、インターネットの登場により、中国の「民主化」を達成することが期待できるという技術エンパワーメント論も存在している。確かに、2013年から中国インターネットにおける言論規制政策が一層厳しくなり、中国メディア研究も技術エンパワーメント論から政策規制論に転換している。しかし、「女漢子」の意味変化という事例からすると、中国の主流メディアは政策規制以外の手法で支配的価値観を再生産する可能性を見出すと考えられる。
以上を踏まえて、本研究は「女漢子」をめぐる意味闘争というプロセスに注目し、現在の情報環境においてもサブカルチャーが唱えた、合理性がもつ男女平等主張は社会合意に達せず、支配的文化からもう一度排除されることとなった原因を検討しようとする。それを通じて、ポストメディア時代における主流メディアの影響力を明らかにしたうえで、中国メディア研究における技術エンパワーメント論と政策規制論というパラダイム以外の可能性を考察する。
【研究方法】
1、Weiboにおける「女漢子」言説の中で、テキストマイニング調査を行う、インターネット投書における「女漢子」言説に隠された人々の態度を明確化し、インターネット投書における「女漢子」意味の変化を可視化することができる。
2、人民網などニュースサイトを主流メディアとみなした上で、「女漢子」という流行語が初めて引用された2013年5月から、インターネット上の「女漢子」グループが衰退した2016年3月まで、インターネットニュースに対して言説分析を行う。この分析により、主流メディアの報道における「女漢子」の意味が変化したメカニズムを検討した。
3、インターネットにおける「女漢子」コミュニティで活躍したユーザーに対して半構造化インタビューを行う。その調査を通じて、「女漢子」のアイデンティティーを明らかにした上で、主流メディア報道における「女漢子」言説の変化がサブカルチャーに及ぼす影響などを解明した。
【結論】
1、主流メディア報道における「女漢子」の意味に対する「再生産」は三つの段階がある。男性に負けない能力がもつ女性を賞賛する言葉→まだ能力がもつ女性に対するプラスの賞賛とは言えるが、意味が曖昧になり、ジェンダー秩序を超える特性を失う→すでにマイナスになり、「女らしくない」タイプ女性に対する非難となる。
2、言説分析の結果とテキストマイニング調査の結果を参照した上で、以下の結果が得られた。つまり、主流メディア報道における「女漢子」言説がマイナスの意味に変化してきた影響を受け、インターネットにおける一般市民が「女漢子」ということばがマイナスの意味のことばと認識された。
3、インタビュー結果からすると、主流メディア言説変化は直接にサブカルチャーに影響を及ぼすのではなく、サブカルチャー以外の「彼ら」の「女漢子」に対する認識を悪化させることを通じて、サブカルチャーに圧力を与え、サブカルチャーの規模を縮小させ、サブカルチャーの活動の勢いを止めさせた。
4、インターネット時代において、主流メディアはイデオロギー装置としての影響力は依然として存在している。主流メディアは報道に「女漢子」ということばの意味に対する解読を変化させることにより、サブカルチャーとしてのイデオロギーを弱体化させ、支配的文化におけるジェンダー秩序を再生産した。
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WeChatが果たす異文化情報伝播効果に関する一考察
-公式アカウント関連電子調査結果に基づいて-
孫景釗(筑波大学大学院 院生)
【キーワード】IMアプリ、WeChat、公式アカウント、ポップカルチャー、異文化受容
【研究の目的】
現代中国社会において、マスメディアを通じた情報伝達は比較的に厳しい規制状態にあることは周知の事実である。ニューメディア媒体であるインターネットに対しても同じであり、GFWといったネット上の情報監視・規制・遮断等を目的とした検閲システムが搭載されている。しかし、ハリウッド映画や日本アニメ等様々な外来文化が中国社会にて流行しており、これらを「悪俗文化」と批判する声が中国学界で長年絶えないにもかかわらず、現在に至ってもその流行の勢いは止まる傾向を見せていない。
本研究は、言論統制が世界で最も厳しい国家の一つとされている中国社会において、外来コンテンツがインターネット環境、特にネットコミュニティの代表であるSNSを通じて受容されている現状を考察することを根本的な目的としている。
【先行研究との差異】
SNSとは即ちウェブ上で社会的ネットワークを構築するサービスのことだが、中国ではこれにIMアプリの概念を入れることが多い。その為、中国におけるSNS研究の重点はミニブログの代表である「Weibo」の他に、IMアプリの代表である「WeChat」にも置かれている。
「Weibo」における異文化伝播は、少ない字数によって構成されるコメントに著作権保護が見いだされないために文化伝播に好都合であることが既にこれまでの研究で明らかになっている。しかし、「WeChat」に関しては、CNKIに収録されている関連研究は(2019年12月の時点で)依然として日本語教育や文化産業に経だっており、WeChatのユーザーエクスペリエンスについては「機能」「感情感知」といった内容がファクターとして成り立っているとの結論が出されている、それ以上にWeChatユーザーの文化コンテンツ情報に対する認識や感知等に対する研究成果は出されていない。これは、WeChatのIMアプリとしてのパーソナルコミュニケーション機能を重視する傾向があるためと思われる。
本研究における先行研究との差異は次の二点にある。①WeChatのIMアプリとしてのパーソナルコミュニケーション機能よりもマスコミュニケーション機能に着目している。②WeChatだけが持つ特徴を分析するよりも、WeChat自身が持つ異なる機能が示す違いに着目している。
【研究の方法】
WeChatユーザーを対象とした社会調査を行い、調査は電子調査の形で行った。「インフィード広告」に関するアンケート調査はこれまで五回行われており、段階的な結論が出されているため、この度は主に「公式アカウント」に関する質問を中心とした。回答の有効性を判断する規則を定めた上で、「個人情報」「WeChat使用頻度」「ユーザー行動」「公式アカウント使用」の四つの面に分かれた全20問のアンケートを行った。
調査は「問巻星」のプラットフォームを利用し、2020年1月までに二回行った結果、第二回調査終了(2020年1月18日)時点で回収済みのアンケートはN=234、うち有効回答数はN=188であった。調査結果を基に、四つの面に分かれたデータを以て相関分析等を行い、関連性を検討し、最終的に結論をまとめ上げた。
【得られた知見】
日常においてポップカルチャー関連情報を取得する主なルートとして、フォローしている公式アカウントを挙げたWeChatユーザーの比率は高く、WeChatが文化伝播の役割を効果的に果たしていると示唆する現象が確認された。また、日本ポップカルチャーを含む外来文化情報の主な取得元としての認識率も高く、同時に日常においてWeChatの公式アカウントを通じた外来コンテンツの受容に費やする時間も比較的に長いことが判明した。
一方、ユーザーの日常におけるWeChat使用度(使用回数、使用時間等)と公式アカウントにおける記事へのポジティブなフィードバック行為(シェア、ブックマーク、コメント、「いいね!」等)とでは正の相関関係が検証されている。また、機能拡張の一部として他サイト(動画サイト、ショッピングサイト、フォーラムサイト)のリンクへのアクセスを扱う比率との関連性も確認できている。
今回の調査結果と「インフィード広告」関連調査結果との比較では、後者における文化伝播・受容現象は主にユーザーの社会的な属性、または行動パターンと関係しているのに対し、「公式アカウント」においてはWeChatの使用頻度自体との関連性が強かった。これは情報伝達が偶発的に発生するか否かとの関連性が深くかかわっていると考えられ、今後行われる「タイムライン」及び「チャット」に関する研究で新たに検討する予定としている。
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2019年経済紛争に対する日韓のSNS上の反応に関するネットワーク分析
林東佑(東京大学大学院 院生)
【キーワード】ネットワーク分析、ソーシャルメディア、世論、ナショナリズム、日韓関係
【研究の目的】
この研究は2019年日韓間の経済紛争時期のツイッター上の世論の構造と内容をネットワーク分析を通じて把握することを目標とする。具体的にはリツイート関係を分析して 1)日韓でのユーザが成している構造は違うか 2)ユーザが分かれてグループを形成しているのなら、それぞれのグループの特性は何か 3)各グループの中でハブになっているユーザは誰であるかを明らかにすることを目指す。さらにリツイート関係だけでなく、メンションとリプライ関係も分析する。
【先行研究との差異】
ネットワーク分析を社会学やコミュニケーション研究に活用した先行研究として、弱い紐帯の強さを力説したグラノヴェッター(Granovetter, 1973)の研究をはじめ、選択的接触(Himelboimら, 2013)、2段階の流れ論(Choi, 2015)、フレーム理論(Qin, 2015)、議題設定理論(Guo, 2012)などがある。本研究は先行研究を参考しながら、次のような三つの点で差別化を試みた。一番目は、マクロな見方で全体構造を把握するため、 先行研究が用いてきた規模より大きな規模のデータセットを対象にした。主な分析期間である2019年7月の場合、日韓を合わせて2300万件のツイッターを分析しており、追加的に分析した8〜12月の場合も数百万件ずつのツイッターを対象にした。二番目は、技術の発展により使用できるようになった新たに自動化された分析法を使用した。具体的には、mySQLWorkbench、phpmyadmin, Google ColabとCytoscapeなどを利用してデータ管理と抽出、クラスタリング、共起関係分析、次数中心性とページランクの計算などを行った。最後に、徴用工問題と輸出規制をめぐった2019年の日韓経済紛争という比較的新しい事件を扱った。
【研究の方法】
方法には大きく二つある。一つ目はネットワーク分析である。ネットワーク分析とは個体と個体の間の関係を究明することを目指すアプローチである。これにより、この研究は日韓のツイッター利用者がなしている全体的構造、特に政治性によるグループ化を明らかにする。さらに次数中心性を求め、各グループのハブとなるユーザを発見する。最後に政治性によって分かれた各グループにそれぞれ色を付け、分かりやすく視覚化する。
二番目は共起関係の分析である。マクロな構造のみならず、それぞれのグループの性向を明らかにするため、共起関係分析を行う。共起関係は、頻繁に使われていた単語が何なのかを把握するだけでなく、単語の間にどのような関係があるのかを可視化する。更にページランク・アルゴリズムを使い、各グループの中心となるキーワードを抽出し、重要度に応じて文字の大きさに差をつけて視覚化する。
分析期間は日韓間の対立が激化し始めた2019年7月から日韓首脳会談が開かれた12月までに設定した。前述したどおり、データの管理にはmySQLWorkbenchとphpmyadmin、分析にはGoogle Colab、視覚化にはCytoscapeをそれぞれ活用した。
【得られた知見】
日韓両国のリツイート関係を分析した7月の場合、1)日本は大きく二つのグループに分かれている反面、韓国は全体的に一つのグループとして構成されていた。2)具体的には、日本は韓国を非難する保守的なグループと安倍首相を批判するリベラルグループに分けられているのに対し、韓国は日本を非難する意見が目立った。3)日本の場合、多くリツイートされた上位の20人のユーザのうち10人が保守グループ、10人がリベラルのグループに属しており、韓国は上位20人のうち15人が日本に批判的な態度を取っていた。また、日本は保守系まとめサイトが、韓国は大統領府が最も多くリツイートされていた。 最後に、伝統的マス・メディアの公式アカウントは、リツイート関係分析ではほとんど見つからなかったが、メンションとリプライ関係の分析では相当数が上位にランクされた。
以上の結果をまとめると、日本の場合、リツイートにおいては保守とリベラルがはっきりと区別され、経済的紛争に対してそれぞれに異なる反応を見せている反面、韓国の場合は全体的に一つの反応だけが探知された。また日韓両方で、ツイッター・ユーザーは、伝統的マス・メディアのメッセージをそのまま再伝播しようとする行為(リツイート)は少ない反面、ユーザー自身がメッセージを発信する場合、その中で伝統的マス・メディアの名称を言及するか(メンション)、伝統的マス・メディア・アカウントにユーザー自身の反応を伝えようとする場合(リプライ)が相対的に多いことが確認できた。
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1930年代植民地朝鮮における近代メディア環境と大衆の世界認識
-野談専門雑誌の分析を中心に-
朴多情(東京大学大学院 院生)
【キーワード】野談、雑誌、残存(oral residue)、口述性、文字性
【研究の目的】
本研究はオングのメディア論に基づき、植民地朝鮮の近代物語ジャンルであった野談を通じて、植民地朝鮮のメディア環境と大衆文化の展開がどのような関係であったかを分析する。具体的には野談専門雑誌に掲載された文字野談の叙事構造分析を通じて、文字テキストに残された口述性を確認し、それが持つ意味を野談生産者たちの大衆に対する認識と連関して解釈する。
【先行研究との差異】
野談に関する従来の研究は、まず国文学のアプローチが多く、特に 野談テキスト自体の内容分析に偏ってきた。このような研究傾向では、野談生産者の個人的な思想や背景に研究の射程が限られてしまう。2000年代後半から近代野談の大衆性に研究の射程を広げた研究が行い始まり、植民地時代の野談の大衆性の原因を野談の持つ「朝鮮的な魅力」として規定し、これを植民地状況での朝鮮学熱風などと連関付けて解釈した。しかし、このような研究傾向には1930年代後半からの戦争期にも持続的に大衆性が確認できる野談の実態に対する説明には限界を持つ。つまり、このような観点からは戦争動員に積極的に参加した野談界とそれを消費さた大衆たちの様相を野談の「暗黒期」としか説明できないからである。本研究では、従来の研究の限界を超えて、野談の大衆性を当時の植民地朝鮮の近代メディア環境との関係から解釈を試みる。1930年代の植民地朝鮮を近代メディアの競合の場として規定し、ハングル識字率のなかった77%の大多数の大衆が口述性の空間で世界を認識していた状況と関連して、声野談(野談公演、放送野談)のみではなく、文字野談にも残されていた口述性を確認することで、野談の大衆性が大衆の世界認識とメディア環境と深い関わりを持っていたことを明らかにする。
【研究の方法】
本研究では、二つの野談専門雑誌、すなわちユン・ベクナムの『月間野談』(1934〜1939)とキム・ドンインの『野談』(1935〜1945)に掲載された野談作品の叙事構造を分析する。特にユン・ベクナムとキム・ドンインが両雑誌の編集主幹として務めていた期間の作品を中心に分析を行う。『月間野談』の場合1934〜1935年の一年余り、『野談』の場合いは1935〜1937年の一年半。叙事構造分析の際、叙事を構成する単位として個別的な事象とみられるものを「事件」と設定し、「事件」の間の結合構造を確認する。また野談テキスト以外に野談に関わる新聞、雑誌、評論、回顧録などを分析してユン・ベクナムとキム・ドンインの大衆に対する認識と野談雑誌企画の目的を確認する。
【得られた知見】
相当数の活字化された野談テキストは、一人の主人公に対する互いに無関係の物語を並べる連作式構成、あるいは同じ主題をそれぞれ異なる主人公の物語で表現するオムニバス式構成で発表された。導入部に長々と説明された人物が、実は主人公ではなかったり、一つのテーマを伝えるために複数の国の代表的な説話をいきなり結びつけたり、主人公に関わるエピソードを時間の流れと関係なく並べたりもする。このような展開方式は、明確に定められた主人公が経験する事件の間の緊密な因果関係を特徴とする近代小説ではなく、口述文学の特徴である。
キム・ドンインなどの近代小説家たちの野談作品は、このような口述文学の特徴がほとんどない。彼らの作品は近代短編小説に近いほどの完成度を見せる。この事実は、近代小説家たちが野談作品を文字で発表してはいるものの、野談公演やラジオ野談の口演者としては登場しなかったという事実と深い関係がある。口述性は必然的にパフォーマンスとつながっているので。
結論的に、なぜ植民地時代の野談が庶民大衆に愛されたのかという問いには、このような口述性がさらなる答えになるだろう。つまり、庶民大衆に慣れた声の文化の日常を野談が具現していたのである。そしてこのような口述性は、ユン・ベクナムやキム・ドンインなどによる文字性の濃い野談作品とともに共存していた。つまり、大衆小説家のユン・ベクナムと近代小説家であるキム・ドンインの野談専門雑誌創刊は、文字性と口述性という二つの次元で展開されていた二つの近代物語ジャンルである近代小説と野談の領域を合致しようとした試みであった。
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放送キャンペーンにおける社会的インパクトの研究
-ギャラクシー賞報道活動部門の分析とNHK2020応援ソングプロジェクトの展開を事例に-
浅野麻由(立教大学)
【キーワード】放送キャンペーン、社会デザイン、社会的インパクト
【研究の目的】
テレビにおける放送キャンペーンは、社会的課題への幅広い認知を得ることを目的としており、テレビ放送開始以来行われてきた。しかし、2000年以降のインターネットの台頭、そして2015年以降の携帯電話への4Gサービスの開始など、近年においてマス・メディアをめぐる環境は変容してきた。その中で、テレビにおける放送キャンペーンはどのように展開し変容したのかを明らかにすることを本研究の目的とする。
【先行研究との差異】
マス・コミュニケーション論において、社会的課題の幅広い認知を得るために、告発や提言による説得行為や、繰り返し放送し強調するなどの「キャンペーン」を対象にした研究がこれまで行われてきた。本発表では、テレビ放送における「キャンペーン」を研究の対象とする。日本において放送キャンペーンの研究は、1960年代からなされてきたが、2000年代に入ると、その研究はほとんどなされていない。本研究では2000年以降の放送キャンペーンを研究対象とする。
【研究の方法】
本研究では2000年以降に実施された放送キャンペーンの事例を3点取り上げる。
事例研究1として、NPO法人放送批評懇談会によって表彰される「ギャラクシー賞・報道活動部門」を受賞した136番組(2003年~2017年まで)を取り上げる。この「報道活動部門」は、放送キャンペーンなど特定の番組枠を越えて取り組んだ優れた報道活動や、単体の完結した番組とならずとも、社会性、時代性のある優れた報道活動(調査報道、スクープなども含む)を行ってきた放送番組関係者、放送局、団体などを顕彰するものである。事例研究2として2016年にアメリカのCATVで放送された「American Divided」の放送キャンペーンの展開を再度研究の対象とする。事例研究3として、現在進行中のNHK2020応援ソングプロジェクト(2018~)として放送キャンペーンを展開している「パプリカ」を取り上げる。
【得られた知見】
1 放送キャンペーンの動向と社会的影響力
ギャラクシー賞報道活動部門を受賞した136番組から、放送キャンペーンの動向を明らかにした。第1に、放送キャンペーンでは、主に「福祉」の分野をテーマ設定にすることが多かった。行政における福祉問題への対策は、2000年以降に行政主導型から民間や地域によってその対策を求める傾向にある。問題の発信自体も、行政が問題を捉え施策するという流れでなく、マス・メディアによって問題提示が進んだと言えるだろう。第2に、研究対象対象とした136番組中、実際に社会に影響(変革)を与えたことが明らかな番組が20番組あった。その20番組の40%が不正を「告発」をするものであった。
2 テレビ放送を超えたキャンペーンの在り方
これまで、放送キャンペーンは放送局内で多数にわたって継続的に放送することが多かった。しかし、2000年代に入るとメディアを横断する傾向がみられた。「テレビ放送と書籍出版型」などがみられる。
4Gサービスが展開された2015年以降の放送キャンペーンでは、米CATV「America Divided」(ドキュメンタリー)がある。その放送キャンペーンでは、「テレビ放送と教育とSNS連動型」であった。テレビで放送したドキュメンタリーを小学校から大学教育機関で「教材」として扱われていた。またSNSにおいても放送したドキュメンタリーを配信した。この放送キャンペーンの特徴は、教育とSNSにおいて「議論の場」を設けたことである。視聴者同士が議論を重ねることで、問題の認知が深まり課題解決のための行動が見られた。
NHK「パプリカ」では、「テレビ放送とSNSとイベント連動型」であった。「パプリカ」はそもそも楽曲である。しかしその楽曲を活用し障害を抱えた子どもたちの楽団(「Foorin楽団」)の結成をし、共生社会を議題とするショートドキュメンタリーを放送し、社会へのメッセージを伝えている。また、全国各地で「パプリカ」に関するイベントを開催し、そのイベントの展開をドキュメンタリーとして放送している。またSNSであるyoutubeでも配信を行い、2億回を超える再生回数となった。そのような展開の結果、「パプリカ」は、2018年秋の楽曲リリースにも関わらず、2019年のレコード大賞を受賞するという大きな社会的影響をもたらした。
2015年以降の放送キャンペーンの特徴としては、第1に、一時的なテレビ放送を補完するように、情報をいつでも得られるSNSを効果的に活用していることである。第2に、メディアを超えて、教育やイベントを展開し直接的に視聴者と交流を持っていることである。テレビの影響力は近年減少化傾向にあるとされるが、テレビ放送を超えた「連携型」によってその効果は大きく得られると考察できる。
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公正世界信念がテレビ番組に対する批判な態度に与える影響
正木誠子(慶應義塾大学大学院 院生)
【キーワード】テレビ番組、テレビ批判態度、公正世界信念、回帰分析
【研究目的】
本研究では「テレビ番組に対する視聴者によるネガティブ反応」をテレビ批判と定義し、さらに態度と行動に分類した。前者はテレビ番組に対してネガティブな感情を抱くこと、後者はその気持ちを何らかの行動(SNSに投稿、会話の話題にする等)に移すことを意味する。本研究ではテレビ批判の態度面に注目し、その規定因を検討する。良い人には良いことが起こり、悪い人には悪いことが起こるという信念を指す公正世界信念(Lerner 1980)にがテレビ批判態度に与える影響について、定量的なデータをもとに検討することを目的とする。
【先行研究との差異】
テレビ批判の態度面に関する先行研究(正木 2019;正木 2020)では、主に「自分はメディアの影響を受けないが第三者は違うと考え、それに対応した行動をとること」を意味する第三者効果(Davison 1983)やその派生理論と考えられるPresumed Media Influence(Gunther & Storey 2003:以下、PMIと表記)との関連が注目されている。
しかしながら、テレビ番組における望ましくない描写を「よくないこと」「悪いこと」と置き換えると、そのような描写に対する批判態度の生成には、秩序に対する考えといえる公正世界信念が関わるのではないだろうか。つまり、公正世界信念を持つことで、テレビ番組に対して批判態度を抱きやすいと想定できる。第三者効果やPMIと異なり、その人の潜在的な意識と捉えられるため、先行研究とは異なる知見が得られると考えられる。
【研究方法】
概要 2019年3月1日~2日に、株式会社マクロミルのモニター会員520名(男女各260名、20、30、40、50、60代が52名ずつ、平均年齢44.7歳、SD=14.15)を対象に実施した。
主な質問項目
①テレビ批判態度を尋ねる項目(58項目)。正木(2020)を参照した。「特定の企業や政党に関する報道ばかりする」「ドラマの配役が原作と合わない」などのテレビ番組場面を提示し、それぞれに対して批判態度を抱くかどうか4件法で尋ねた。先行研究に従って「中立性・公平性の欠如への批判態度」「ドラマの質の低さへの批判態度」「非礼・不謹慎な内容への批判態度」「犯罪助長・過激表現への批判態度」「軽薄な内容への批判態度」に分類し、α係数を算出したのち平均値を取り変数化した。
②公正世界信念を尋ねる項目(12項目)。村山・三浦(2015)を参照した。「苦しみを抱えたすべての被害者が報われる日はやがて来る」「どんな人であっても自分の働いた悪事の報いはいつか受けるものである」などについて、自分の考えにあてはまるかどうか4件法で尋ねた。先行研究に従って「究極的公正世界信念(「苦しみを抱えたすべての被害者が報われる日はやがて来る」など)」「内在的公正世界信念(「どんな人であっても自分の働いた悪事の報いはいつか受けるものである」など)」「不公正世界信念(「世の中の大抵のことは不公平だ」など)」に分類、α係数を算出したのち平均値を取り変数化した。
【得られた知見】
独立変数として公正世界信念(3因子)、従属変数としてテレビ批判態度(5因子)、統制変数として年齢と性別を投入した重回帰分析を行った。
その結果、究極的公正世界信念が強いほど、「犯罪助長・過激表現」(β=.09, p<.10)に対する批判態度が有意に強まり、究極的公正世界信念が弱いほど、「中立性・公平性の欠如」(β=-.20, p<.001)と「非礼・不謹慎な内容」(β=-.09, p<.05)に対する批判態度が有意に強まることが示された。
さらに、内在的公正世界信念が強いほど、「中立性・公平性の欠如」(β=.13, p<.01)と「非礼・不謹慎な内容」(β=.10, p<.05)に対する批判態度が有意に強まることが示された。
そして、不公正世界信念が強いほど、「中立性・公平性の欠如」(β=.18, p<.001)、「ドラマの質の低さ」(β=.15, p<.01)、「軽薄な内容」(β=.10, p<.10)に対する批判態度が有意に強まることが示された。
本研究では、公正世界信念を持つほどテレビ番組に批判態度を抱きやすいと想定して調査を行ったが、公正世界信念の種類によって傾向が異なることがわかった。内在的公正世界信念が正義の内在を信じる内容であることをふまえると、その強さによって「中立性・公平性の欠如」「非礼・不謹慎な内容」という、望ましくないテレビ描写に対する批判態度が促されるのは妥当であると考えらえる。また、究極的公正世界信念が被害の回復を信じる内容であることをふまえると、その強さによって「犯罪助長・過激表現」のような描写に対する批判態度が促されることも適切といえるだろう。
その一方で、究極的公正世界信念の弱さや公正世界信念の対極に位置する不公正世界信念の強さも一部のテレビ批判態度を促していることも示唆された。以上をふまえると、公正世界信念に反する考え方がテレビ批判態度に与える影響についても、慎重に検討する必要があると考えられる。
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実名・匿名報道の意義と取材源の保護・支援のあり方
松原妙華(東京大学)
【キーワード】内部告発報道、表現の自由、有名性、現れ、可傷性
【研究の目的】
実名・匿名報道の問題は、長年議論され続けてきたテーマである。報道機関は実名報道や顔出し報道の正当化根拠として「権力の監視」、「事実の重大性や命の重さを伝える」、「怒りや悲しみの共有」などを掲げるが、大きな事件で実名が報道されるたびに、報道対象者のみならず読者・視聴者から批判や疑問が投げかけられ、社会的議論に発展している。昨今では、相模原市障害者施設の殺傷事件や京都アニメーションの放火殺人事件における被害者報道に関し、警察の実名伝達の問題やSNSでの市民からの批判などと相まって、実名・匿名報道のあり方について報道機関による再考が余儀なくされた。
報道の公共性や公衆の知る権利などを理由に、当事者個人を前面に押し出し、悲痛や怒りの心情を語らせることが、定型となりつつあるが、こうした報道のあり方を今一度、検討する必要がある。そこで、本研究では、実名・匿名報道の問題と取材源保護の問題とをリンクさせ、調査報道の中でも取材源秘匿の原則が適用される場面が多い内部告発報道に焦点を当て、事件報道における実名・匿名の問題とは別の視点から、取材源の実名・顔出し報道の功罪および実名・匿名報道による取材源保護・支援のあり方について考察する。
【先行研究との差異】
実名・匿名報道の問題について、ジャーナリズムの分野においては、犯罪事件における加害者・被害者の報道や災害報道の被災者の報道など、加害側と被害側でその議論の内容に差はあるとしても、主に警察発表と報道が関係している場合が事例として取り上げられ、議論されることが多かった。また、法学の分野においては、取材対象者や報道対象者のプライバシー侵害や忘れられる権利との関係において議論されてきた。
本研究では内部告発報道における取材源である内部告発者の問題として取り上げ、さらに、実名・顔出し報道の問題を有名性の議論や現れの議論といった哲学的および社会学的視点から捉え、これまでの実名・匿名報道に関する先行研究とは異なった視点から考察を行った。
【研究の方法】
内部告発を端緒として報道された内部告発報道において、最終的に取材源が実名報道された7つの個別事案について新聞記事、テレビ映像、書籍等を精査した上で、取材源となった内部告発者にインタビューを行い、実名報道に至った経緯や実名報道による取材源への影響など、その取材・報道のあり方について調査した。
また、実名・顔出し報道を名前が曝されるという有名性の問題と顔や声が曝されるという身体性の問題として捉え、社会学的視座として映画研究およびテレビ研究における有名性の議論を精査し、また哲学的視座としてハンナ・アーレントの公的空間への現われの議論およびジュディス・バトラーの身体の可傷性と現れえない者たちの議論をヒントに、公共性の高い事柄に関する報道において実名を報道する意義を考察し、上記インタビュー調査結果との接続を試みた。
【得られた知見】
告発者は、自身が関わる業務において不正を発見し、内部是正を試みるがとりあってもらえず、外部への告発に動く。しかし、匿名報道では組織は不正を認めず、さらには隠蔽行為を重ねるという状況があり、告発者は記者からの取材や不正是正への協力行為もあって、自らの身体を公に露わにし、世に訴えようと実名報道や顔出し報道にいたる。取材源による情報提供は受動的・能動的と二分されがちであるが、告発者側から実名報道にいたるまでの一連の過程を見ると、その態度は受動とも能動とも言い難い状況があり、取材源の受動・能動を転回させる力が記者にはある。内部告発報道の公共性は、こうした記者と取材源との間で織り成されるともいえる。事件・事故報道の取材対象者は受動的な立場となる場合が多い一方で、内部告発報道の場合の取材源は能動的に関わる場合がしばしばあり、初めは受動的であったとしても実名や顔出しに応じる時点においては主体的な立場で関わる。その場合、取材源を表現活動の主体として捉えることができ、取材源には自己実現の側面があるとして、個人の表現の自由として構成することができる。
また、内部告発報道は、市民からの反響の点において、新聞よりもテレビ報道による影響力が大きく、市民からの激励等が告発者の力となり、取材源の保護や支援につながる可能性が高い。人々に見られ、聞かれ、聴衆の前に姿を表わすことで見るものの中にリアリティが生まれ、人間的共同性の空間の中に取材源が現れることができる。しかしその一方で、映像媒体は新聞報道に比べ、取材源の関与が明らかとなり、報道内容による名誉毀損や風評被害が問題となった際、その責任追及が取材源に及ぶ危険性が高い。テレビ報道においては取材源の実名・顔出し報道の功罪が顕著にあらわれるため、慎重な取材・報道姿勢が必要となることなどの知見を得ることができた。
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社会運動を語る女性参加者
-社会運動空間における「趣味共同体」に関する研究-
陳怡禎(日本大学)
【キーワード】サブカルチャー、二次創作、ファン文化
【研究の目的】
本研究の目的は、「社会運動研究」や「ファン研究」の両面から、東アジアの現代社会の若者、とりわけ女性は、いかに趣味を用いて社会運動について語るか、さらにその語りを用いて社会運動空間の中に趣味共同体を構築しているかについて考察することである。
【先行研究との差異】
まず、社会運動論という側面に注目する。従来の社会運動論では、運動を行う組織や運動自体に注目してきたが、富永(2016,2017)は、異なる視点を取り入れて、社会運動参加者の日常生活の局面にも焦点を当てようと試み、社会運動という「出来事」は、社会運動活動家の個々の「日常」と相互反映するものであると指摘している。さらに、富永は、2011年以降に日本で行われる社会運動を考察し、運動の担い手である若者の特徴を分析した結果、彼らは社会運動という組織の同質性に縛られることがなく、自分の日常の延長として社会運動を位置付けていることを明らかにした。一方、台湾のひまわり運動に対する考察においても、それらの社会運動の「日常性」をしばしば強調している(區,2014;黄,2014;港,2014;清原,2015;福島,2016)。富永の議論を踏まえた上で、本研究は台湾ひまわり運動の担い手である若者、特に女性達によって社会運動空間に行われる「日常的文化実践」について考察する。社会運動に参加する女性達は、いかに社会運動空間に居場所を探りながらも、日常生活に実践される「私的趣味」を非日常的な空間である社会運動に持ち込んでいるのか、そしてその実践の意味とは何かについて考察していく。
次に、ファン研究という側面から検討する。従来のファン研究では、ファンに対し、「社会空間から逸脱し、独自な関係性を作る社会的他者」といった言説が主流となっている。言い換えれば、趣味縁を中心に繋がるファン・コミュニティーは、公的空間から離れた場所で私的趣味を実践する存在だと定義されている。しかしながら、それらの社会運動に参加している女性は、公的領域では可視化されにくい、私的領域で実践される趣味をあえて社会運動空間に持ち込んでファン文化実践を行なっていた。本研究は、この点について検討していく。
【研究の方法】
本研究では、以下のように研究を進める。
①社会運動空間へのフィールドワーク:台湾ひまわり運動が行われた街道空間について確認し、運動の担い手である若者が文化実践を行なった場所の地理的条件やその社会背景を明らかにする。また、ひまわり運動自体は終わったが、いまだ政治活動や社会運動のモデルとして台湾や香港社会の若い世代に大きな影響を与え続けているため、「ポストひまわり運動や雨傘運動」のフィールドワークも行い、日常生活化しているそれらの社会運動を考察する。
②インタビュー調査:8名のひまわり運動女性参加者にインタビュー調査を実施する。また、本研究は特に社会運動空間に「私的趣味」を実践し、そこで女性共同体を構築する女性に焦点を当て調査をする。さらに、本研究は「ファン研究」の視座から、日常性を持つ社会運動について分析する。そのため、本研究はとりわけ趣味縁を中心に結成された女性ファン・コミュニティーへのインタビューに重点を置く。
【得られた知見】
台湾のひまわり運動に参加していた女性たちは、遊びとして趣味を実践するのではなく、趣味を通して公的空間での発話権を奪還しようとしていることが明らかにした。つまり、彼女たちにとって、「ファン」は趣味という「コンテンツ」を消費する受動的な存在ではなく、社会的関係性を生産し構築する能動的な存在なのである。本研究が社会運動空間内部でのファン文化を検討することを通して目指すのは、ファン研究でも社会運動研究でも等閑視されてきた、女性による趣味共同体の公的領域への進出の可能性を提示することである。
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テレビCMの理解実践が構成するローカルな放送空間
-1970年代後半の東京を事例に-
大石真澄(愛知淑徳大学)
【キーワード】放送、ローカリティ、テレビCM、放送空間
【研究の目的】
本研究では、テレビ放送の中でも特に、テレビCMを事例としてローカリティのあり方を、受け手の理解実践を含めた形で再考する。
特に、1つめに「東京」で「ローカル」であることを通じて、ネイション的であること、中央集権的であること、すなわち構造的に規定された「場所」概念と、ローカル性との分離について考察を行うこと、2つめに理解から「場所性」を認識する受け手のメディア実践をローカリティ概念に含むための検討が大きな目的である。
【先行研究との差異】
これまで放送のローカリティは、「放送された場所」という構造的な規定から発想されているものが多かった。テレビもラジオもその経緯として、基本的に県単位で放送局が置かれ、特に戦後に関しては、制度的な側面からの研究が多く進められてきた面が大きい。
こうした状況の中で、マス・コミュニケーション学会2019年秋の大会でワークショップ「放送におけるローカリティを通時的に問う」が開催され、2件の発表が行われ、今後の放送のローカリティの研究方向について議論がなされた。このときに、中央との対比で考えられる意味でのローカル性という概念の用い方に関する問題点が認識され、これを研究課題とする一つの方向が見いだされた。
この受け手の、中央集権的な意識は、特にテレビ放送に関しては、ネイション・イベント概念の下で、テレビ視聴が視聴者の中央志向的な集合意識を形成する側面について、詳細に研究が行われてきた。同時にその研究は、「放送コンテンツ=番組」ということを前提にしてなされてきた側面が非常に大きい。吉見俊哉(2002,「メディア・イベントとしての「御成婚」」津金沢
聡広編『戦後日本のメディア・イベント』)による「皇太子ご成婚」の研究に典型的に見られるように、そうした番組をめぐる、周到な放送シークエンスの構成および、送り手による周辺的な言論の取捨選択といった状況こそが、中央志向的な集合意識を形成する役割を果たしていた。
この一方でテレビCMを対象として、難波功士(2016,「「関西CM」とは何か」,京都精華大学全学研究センター『テレビ文化研究:テレビ文化アーカイブズ研究プロジェクト研究会報告集』)によって制作者と制作物の「泥臭さ」を接続した側面からの、ローカリティに関する問題の指摘もわずかながら行われてきた。この側面の視点の重要な点は、表象や表現という受け手が直接に接する放送テクストの形態そのものに「ローカリティ」の可能性を見いだしたことである。また、ローカリティに表現に関する受け手のレリヴァンスを含んでいる点も重要なものだろう。
小括すると先行研究では、一つに放送される地域という意味での構造的な側面や周辺的な言論の配置に注目される傾向があり、もう一つに少なくともテレビCMに関しては、地方を内容的に対象にしているという以上の、表象や表現のレベルにまで言及しているものがあるということになる。
本研究は、これを踏まえて「短い時間でまとまりのある映像が数本流される」という特に1970年代以降のテレビCMの視聴経験に注目して、その放送のシークエンス構成と、そこでの表象や表現の両面=受け手の理解を手がかりにローカル性に着目するという点で、これまでの研究と差異がある。
【研究の方法】
本研究では、申請者が個人的に収集を行った1970年代の家庭用ビデオデッキでの録画データから、ローカル枠を含むテレビCM放送枠を対象として、そのシークエンスの順番の理解を復元・記述していくことによって、そこで立ち上がっていた「受け手にとっての,意味経験としてのローカル性」を考察する。
特に、東京での事例を参照することで、テレビ放送における「ネイション性」と「中央集権的」であることを分離できるようにして分析を行う。具体的には1978年4〜5月に録画された深夜帯の放映枠を用いる。
【得られた知見】
本研究の結果、(a)テレビCMテクストないし、それが含まれる放送シークエンスに受け手がローカル性に気づく契機が含まれる(テクストの「泥臭さ」や「中央との対比性」など) (b)この契機によって、受け手は今自分が見ている放送シークエンスが「どのような場所にあるか」を位置づけざるを得なくなる (c) このa・bの経路で理解実践が行われることによって、受け手の構成するローカルな放送空間が生まれる可能性について見いだした。
特に、「地域の情報がテクスト内に含まれる」タイプの制作物やそれを含む枠との比較を行った結果、テレビCM制作物での「地域の情報」のそれとしての理解にさまざまな水準があることが重要であるとわかった。すなわち、同じく「地域の情報」をテクストに含む制作物であっても、放送シークエンスや、見る人がその制作物に接して産出するさまざまな理解によって、経験される「ローカリティ」は異なったものになり得る可能性があるということだ。
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県域放送にあらわれる放送の地域性と多元性
-山形県における放送事業の展開過程に着目して-
樋口喜昭(早稲田大学)
【キーワード】基幹放送、地域性、多元性、山形県
【研究の目的】
本研究は、山形県を対象に、県域メディアである放送局の開局の経緯とその展開過程から放送の地域性と多元性の阻害・促進要因を明らかにすることを目的にもつ。山形県は、県内の放送免許の争奪をめぐり、地方紙である山形新聞を中心としたメディア企業による独占性が指摘されてきた。県内が歴史的にいくつかの文化圏に分かれていることや、1980年代にメディアの独占に対する住民運動が勃発するなど、県域メディアの展開過程を地域の権力構造の側面から分析することができる地域である。本研究はこうした山形県の特性に着目し、県域メディアの展開過程を考察していく。
【先行研究との差異】
山形県内の放送事業にかんする研究は、マスメディア集中排除原則と独占禁止政策の視点から山形における民間放送を取り上げたケーススタディ(藤田稔[1992]「マスメディア集中排除原則の現状と課題--地方住民の視点で」『山形大学紀要社会科学』 23(1)号, p73-110)の他に、県内の主要な放送事業者に対し実施された聞き取り調査をまとめた取り組み(米倉律・小林義寛・小川浩一編[2018]『ローカルテレビの60年』森話社.)がある。前者は当時の免許申請の経過を克明に記している点で本研究にとって示唆に富み、後者は当事者の声を記録することで当時の様相をあざやかに描く必要を示している。これらの先行研究を参照しつつ、本研究は、その後のメディア環境の変化や規制緩和後の現状を踏まえた分析に取り組むとともに、当事者の証言内容を一次資料や他の免許申請者、関係者の手記等によって裏付けながら総合的に分析していく。
【研究の方法】
はじめに、山形県内の放送局史や関係者の手記、および山形新聞社に関する文献調査を行った。次に、初期の放送局員および県内のメディア独占に対して住民運動を行った関係者へのインタビュー調査を行い、その内容を精査した上で地域性と多元性について考察した。特に、次の3点に着目した。第一にどのような経緯で県内の放送局が免許されたのか、第二に申請者の間でどのような摩擦が生じたのか、第三に免許された局がどのような経緯で系列局とネットワーク協定を結び、その結果として、県内のメディア環境に何がもたらされたのか、という点である。
【得られた知見】
山形県における民間放送局の展開を決定づける免許申請をめぐる経緯に関して、県内での対立軸と,県外(特に全国紙やキー局)との対立軸に注目して分析を行った結果、次の3点が明らかになった。第一は、県内初期の民間放送の設立2局において、山形新聞社の社主が大きな影響力を持っていたことである。第二は、人事交流といった従事者間での関係も含めて行われていたことである。このことは同時に、複数局であっても多元性が阻害される要因となり得ていた。さらに、一本化調整において反対勢力を可能な限り排除しつつ、また県外との関係においては、実質的に影響力をもつ2局のネットワーク取引に関して有意な交渉を行なうことによって、県内におけるメディアの多元化が阻まれてきたことがわかった。一方で、そのような独占性は、陰に陽に地域における放送の地域性に影響を与えた。それは、社説放送にみられるような独自の番組開発や、地域の文化事業への高い貢献といった独自の取り組みを可能とした。それは一面では中央行政や資本の方針に対抗しうる地域権力が存在していたと見ることができる。第三に、このような地域の権力に対抗する住民運動の存在があった。そこでは、対抗しうるリーダーの存在だけでなく、中央の出版メディアを介したメディア独占の告発によって全国的に注目されたこと、その後の放送の多元化に対して一定の影響を与えていた。1990年代に入り求心力のあった社主の逝去に加えて、第3、第4の民放テレビ局の開局、県内各地でのケーブルテレビの開局によって県内の放送メディアの多元化がもたらされることになったが、県域メディアの独占は、現在に至る県内のメディア環境に大きな影響を与えていた。このような山形県独自のメディア環境を生み出した背景には、社主の個人的なパーソナリティに帰着させる向きもあったが、山形県民の気質や県内複数の文化圏の存在による中心の不在ががそのような展開を許したともいえる。そのような県にあって、戦前から県内で重要な役割を果たしてきた県紙の社会的機能を背景にさらに分析する必要があることを指摘した。
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青森県におけるテレビ電波範囲の変遷
太田美奈子(新潟大学)
【キーワード】初期テレビ受容、電波、県域、地方、青森県
【研究の目的】
本発表は、青森県におけるテレビ電波範囲の変遷を追うものである。1953年に本放送を開始した日本のテレビは、大都市から順にテレビ電波の範囲を広げていった。青森県に正式にテレビ電波が届いたのは1959年、NHK青森テレビ局の開局によるものである。しかしこの6年の間、仙台や函館といった県外からの電波を捉え、テレビを受容していく様子が県内各地で見られていた。
1959年はNHK青森テレビ局の他に、ラジオ青森テレビ(現・青森放送)も県内での放送を開始し、翌1960年にはNHK八戸テレビ局が開局、テレビ電波は県南までエリアを広げた。これにより県内大半の地域でテレビ視聴が可能となったものの、電波塔からの距離や地形などの問題に阻まれ、電波の恩恵に預かることのできない地域も残り、有線による共同聴視施設の設置でテレビ視聴を可能とした地域もあった。
テレビ放送の草創期、青森県には県内から県内へ発射されるという一般的な電波の他に、他地域から青森県にはみ出した/青森県内を満たせない電波という状況があった。これはこれまで語られてきた都市部のテレビ受容における電波環境と大きく異なる部分である。テレビの到来がイコール電波の整備完了であった都市部に対し、地方では両者に時期のズレが生じ、結果的に人々の主体的なテレビ受容の姿が生み出された。本発表では草創期を中心に、どの地域から発射されるテレビ電波が青森県内にどこまで届いていたのかの詳細を明らかにする。そしてこのような電波環境を鑑み、初期テレビ受容を地方から問う意味について改めて整理する。
【先行研究との差異】
これまで、草創期をめぐるテレビ史の研究において、地方に着目しようというものはあまり多くなかった。また、電波の具体的な状況について、地理学的な視点から各時代ごとに焦点を当てて振り返ろうとするものは見当たらなかった。山岳や河川など各市町村の地形的な条件、そして文化圏という側面からテレビ受容を捉え直す必要があると考えた。
【研究の方法】
本研究の取り掛かりとして、テレビ電波の範囲を全国的に調査した地図資料を収集した。民放では1966年、1991年から1995年、2012年から2013年における電波範囲を示す資料を発見した。NHKの電波に関する資料も読み進めていった。また、先行研究としては地理学の分野からテレビ電波について調査したものを参考とした。さらに、県内でのフィールドワークを進め、地域住民から各時期の電波状況を伺った。
【得られた知見】
1959年のNHK青森テレビ局開局より前、青森県の主に北側には函館からの電波が届いていた。函館にほど近い下北半島では電波受信が容易な地域も多かったが、青森市など陸奥湾に面している市町村では、電波はかろうじて届くというレベルのものであり、「雨降りテレビ」もしくは「雪降りテレビ」と言われた。
NHK青森テレビ局の開局後、津軽地方の大半ではテレビの受像が可能となったが、八甲田山を挟んで県南にはテレビ電波が届きにくかった。1960年にNHK八戸テレビ局が開局し、テレビ電波は県南をカバーしたが、それでも電波が届かない地域が残った。有線による共同聴視設備の設置や、次第に中継局が設置されたこともあって、電波状況は徐々に改善されていく。
1990年代に入ると、県内ほとんどの地域で、NHK、青森放送、青森テレビが視聴可能となっている。しかし1991年に開局した青森朝日放送は中継局の設置が遅れ、下北郡の北部や県南の田子町、秋田県との県境には電波が及んでいない。一方で、北海道の各民放は下北地方に、岩手県の各民放は青森県の県南に広く電波を飛ばしていた。
2011年の地上デジタル化以降、青森県から発射される電波はきれいに県域を形作っている。岩手県の各民放も、岩手めんこいテレビを除き、概ね岩手県域に電波を留まらせていた。八戸市の住民によれば、地デジ化以降、雨などの天候によって見えにくくなった岩手県のチャンネルが複数あるという。地デジ化によって、テレビ電波は一部地域を除き基本的に県域という放送行政の原則に、より忠実になった。
青森県には、県内で発射されるテレビ電波を県内で受信するという単純な構図には当てはまらないテレビ電波の環境があった。このような状況は青森県以外にも、特に地方で見られたのではないかと想定される。テレビは大都市から順にあまねく地方まで電波を広げていったというのは一面的な見方であり、地方では電波の重なりや疎外といった環境の中で人々がテレビを受容していった。テレビ受容を地方から考えるという作業は、電波をめぐって、国家や放送事業側の思惑から離れた人々の実践の様相に着目するということでもあり、特にテレビ草創期はその傾向が強く出ていたと言える。
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冷戦期米国アジア財団の広報外交と日本の学生ラジオ放送
礒山麻衣(東京大学大学院 院生)
【キーワード】文化冷戦、広報外交、学生運動、ラジオ
【研究の目的】
アメリカのアジア財団による、日本の学生ラジオ放送への支援を通じた、広報外交の展開を明らかにする。アジア財団は、アメリカの中央情報局(CIA)によって1951年に創設され、1967年まで「民間の非政府組織」として活動し、アメリカ政府の対アジア文化冷戦の一翼を担った。アジアの共産主義化を防ぐために、アジア各国の知識人・学生・メディア団体など、様々な文化団体に巨額の助成を行った。本研究では、アジア財団の助成を受けた学生団体の一つである、日本の学生放送協会(1952~1960年)に注目する。財団が学生放送協会に対する助成を行った背景や、助成を通じて学生放送協会に与えた影響を具体的に明らかにする。学生のラジオ放送団体に対する助成が、アメリカの広報外交にとってどのような意義を持っていたのかを、限界とともに明らかにする。
【先行研究との差異】
アメリカ広報外交の先行研究との差異:
先行研究では、アメリカ政府(特にUSIS)を主体に、アメリカの文化を発信する広報外交の事例が取り上げられてきた。例えば、Tuch(1990)はアメリカ政府による広報外交として、ラジオ(Voice of America)や展覧会など様々なメディアを用いた展開事例を取り上げてきた。土屋・吉見(2012)は、USIS映画、Voice of Americaのラジオ放送の、東アジアでの展開・受容の両面が取り上げられてきた。これに対して本研究では、アメリカ政府と密接に結びついた財団が、現地の人々の声―日本の学生のラジオ放送―を用いて行う広報外交の展開を取り上げる。
【研究の方法】
本研究では、アジア財団から見た学生団体の姿を、アメリカ側の資料を通じて明らかにすることを試みる。アメリカ側の史料は2種類用いる。1つ目は、スタンフォード大学フーヴァー研究所文書館所蔵のアジア財団資料である。この中には、学生放送協会や関連団体に関するフォルダがある。各フォルダ中には、アジア財団内部の職員同士のやり取りが記されたメモや、アジア財団が作成した助成計画書、学生放送協会との間に交わした合意書、学生からの月次報告書の英訳などがあり、ここから財団と学生の関係性を明らかにする。2つ目はアメリカ国立公文書館所蔵のアメリカ中央情報局(CIA)資料である。アジア財団の全体的な計画に関する資料群の中から、アジア財団の対アジア冷戦戦略の中での、学生放送協会に対する助成の位置づけを明らかにする。
【得られた知見】
アジア財団は、日本の学生の間での共産主義の広がりを憂慮し、全学連に対抗しうる「非共産主義の学生勢力の伸長」を図ろうとした。この試みの一環として、学生放送協会を始めとする、非共産主義系の学生団体に助成を行い、その活動の促進を図ったことが明らかとなった。具体的には、アジア財団は次のような方法で、学生放送協会に影響を与えた。
アジア財団は、財団にとって「有望」な非共産主義学生とコンタクトを取り、彼らがキャンパス内のニュースを放送できるよう、学生放送協会の設立を支援した。学生放送協会に対して助成金を継続的に支給することで、毎週15分間・毎月30分間の学生向けのラジオ放送を可能にした。また、協会の活動初期には、学生が制作するラジオ放送番組に対して、技術的な指導と助言を直接行った。学生放送協会からの月次報告書から、活動内容を注視し、「左翼的」の学生の活動を番組で取り上げないよう指導するなど、番組内容に対しても指導を行うこともあった。さらに、学生放送協会を、財団が支援する他団体(民間放送連盟や国内外の学生団体)と結びつけ、非共産主義勢力の全体的な伸長を図ろうとした。財団は特に、学生放送協会と民間放送連盟との結びつきを重点的に強化した。財団は、民間放送連盟のプロダクションユニットに対して機材を提供し、運用のための資金を提供した。学生放送協会は、この民放連プロダクションユニットの機材とスタジオを番組の制作に用い、民放連加盟の放送局からラジオ放送を行った。また、民放連に助成金を与え、学生が放送技術を学ぶためのワークショップの開催を可能にした。財団はこのような方法で、学生放送協会に対して影響を与えた。
学生放送協会が放送業界に就職する学生を輩出した点で、アジア財団は、次世代の放送人の育成に対して一定の意義を持った。しかしその一方で、学生放送協会の活動は、政治的な関心よりも放送技術の向上に関心を持つ学生によって、次第に担われるようになった。このことから、アジア財団の本来の助成目的である「非共産主義学生勢力の伸長」には結びつかず、このような点で、アジア財団の広報外交には限界があった。
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昭和30年代における、広告対象としての「オピニオンリーダー」の発見
宮﨑悠二(東京大学大学院 院生)
【キーワード】オピニオン・リーダー、パーソナル・コミュニケーション、P・F・ラザースフェルド、知識社会学、読書社会調査
【研究の目的】
本研究の目的はP・F・ラザースフェルドらが提出した「オピニオン・リーダー」という類型が、広告施策の対象として特定されるようにになった経緯を知識社会学的に考察することである。
SNSが台頭した現代においても、他人の消費行動に影響を与える「インフルエンサー」の存在は注目を浴びている。今では「インフルエンサー」と呼ばれる、市場における「キーパーソン」は、「オピニオン・リーダー」「マーケット・メイブン」「イノベーター」など様々な類型化が行われてきた。各類型の学問的な定義はそれぞれ異なっているものの、市場の「キーパーソン」を指す類型はこれまで20種類弱存在していることも指摘されている(山本 2014)。
このように、市場の「キーパーソン」に注目されてきたのは、最近のことではない。日本においてはラザースフェルドらの「コミュニケーションの二段の流れ」の知見が紹介された1950年代後半から、「オピニオン・リーダー」「マーケット・リーダー」の類型化が行われるようになり、広告的な施策を行う対象として特定され始めた。
本研究では、広告施策の対象としての「オピニオン・リーダー」の特定がいかに行われるようになったのかを明らかにする。本研究は、ラザースフェルドらの知見が戦後日本のマス・コミュニケーション論、広告論に影響を与えた詳細な経緯、及び、社会心理学の専門知識がいかに利用されてきたのかを示す知識社会学的な意義を有する。
【先行研究との差異】
1960年代から1970年代にかけて取り組まれた「コミュニケーション史」において、「オピニオン・リーダー」の類型化については検討の対象とされてこなかった。この理由は2点挙げられる。1つは、コミュニケーションの方法の歴史に照準したため、類型の把握方法という知識社会学的な研究が行われなかったことである。いま1つは、物質的・制度的な痕跡を残さない「コミュニケーション」自体の歴史研究を行うことの困難によるものである。
これらの先行研究に対して、本研究では「パーソナル・コミュニケーション」の影響を発見すること、及び「オピニオン・リーダー」の類型化が、その知見の紹介段階でいかにして行われてきたかをつぶさに観察することによって、専門知識の利用のあり方を歴史的に検討する。
【研究の方法】
本研究はテクスト資料を分析することによって行う。使用するテクストは、日本における「コミュニケーションの二段の流れ」の最初の実証調査と考えられる「読書社会調査」に関するテクスト、及び読書社会調査と関係が深い朝日新聞社広告部が関係するテクスト(調査レポート、広告専門誌記事)である。
【得られた知見】
日本読書学会が1956年末に実施した「読書社会調査」に関するテクストを調査した結果、次の二点が明らかになった。
一点目に、読書社会調査は日本読書学会第4部会(読書社会調査部会)と朝日新聞社広告部の両組織が、単なる「調査委託–下請け」以上の深い関わりあいをもって実施されたことが明らかになった。産業・実業界の関心や要請がコミュニケーション研究を駆動することは従来から指摘されていた(Berelson 1959)。本研究では、戦後日本のコミュニケーション研究においても出版市場における購買動機への関心が日本読書学会と朝日新聞社広告部の協力関係を生んだことを、資料に即しながら明らかにした。
二点目に、読書社会調査の前身となる「Booksの会」の1953年の調査で得られていた、「人から聞いて購入した」という購買動機調査への回答が、その後「パーソナル・インフルエンス」として解釈され、「オピニオン・リーダー」の存在が措定されていたことを明らかにした。ラザースフェルドらの知見は、今までそれとして示されていなかった対象を類型化することで、「活用される知」として存在するようになったのである。
また、朝日新聞社広告部のテクストを調査することによって、次の点が明らかになった。読書社会調査で示された「オピニオン・リーダー」「パーソナル・インフルエンス」の存在は、今度は新聞広告を掲載するメリットを裏付ける理論的前提として新聞社に活用され、その前提の下に数多くの「オピニオン・リーダー」調査が行われたことを明らかにした。メディアの経済的状況に応じる形で、「オピニオン・リーダー」は広告施策の対象として調査・特定されていったのである。
以上の三点を明らかにした意義として、「知の産出」と「知の活用」を巡る産業的な影響を示したことが挙げられる。
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市政学的実践と都市研究会
-パブリック・リレーションズの観点から-
中川雄大(東京大学大学院 院生)
【キーワード】都市計画、都市社会学、パブリック・リレーションズ
【研究の目的】
現在、私たちは「都市」という対象を自然に理解している。しかし、ある空間を「都市」として理解することは決して自明なことではなかった。私たちが「都市」という対象を理解するということはどのような必要性に根ざしており、条件付けられていたのだろうか。この問いを検討するために本報告では1910年代後半から1920年代における都市研究会という団体によって進められた都市計画運動に注目する。なぜなら、彼らは「都市を一体として捉え、その改善によって都市問題は解決される」という発想にもとづいて、「都市」という対象を理解していたからである。加えて、当時にその理解は一般的ではなかったため、彼らは「都市計画」を実施するために、「都市」について説明を行い、単に行政官や政治家のみならず都市中間層にも「都市」という概念を理解してもらうような運動を精力的に行っていたという点に特徴を持つからである。
【先行研究との差異】
都市計画にまつわる宣伝活動の側面は都市計画史の先行研究ではしばしば否定的に評価されてきた。なぜなら、ある政策を実施する際に大衆の理解に大きく依存するというあり方は制度設計の不備を意味するからである(高寄 1990, 渡辺 1993など)。本報告ではそれらの手法を評価するというよりも、むしろそこで示されていた「都市」についての理解に注目するとともに、当時の運動において宣伝活動が決して周縁的なものではなく、積極的な意味が込められていたことを明らかにする。
他方で、広報史の文脈では都市研究会の実践は明治期の政府による新聞における法令の掲載から転換した行政PRの事例として概略的に位置づけられている程度である(国枝 2013)。そのため都市研究会がどのような都市についての理解を誰とどのように共有しようとしていたのか、あるいはその活動が同時代の他の啓蒙実践とどのように異なるのかという、実践それ自体についての基本的な検討が不足している。それゆえ都市研究会の実践をPRのなかに位置づけつつ、同時代的文脈からその実践の内実を明らかにする必要がある。
【研究の方法】
このような都市中間層に対する実践が都市計画運動において重要な取り組みの一つとして位置づけられていたということを示すために、19世紀末から進められたP.ゲデスによる市政学的実践について確認する。続いてシカゴ学派のH.ゾーボーの議論を経由することでその取り組みをPRのなかに位置づける。
資料については都市研究会の機関紙である『都市公論』の内容及び都市研究会のメンバーの著作等を分析する。都市研究会の趣意には①機関紙『都市公論』の発行、②図書の発行、③講演会、講習会、展覧会等を開催して「知識の普及と輿論の喚起、誘導に努め」ることが謳われていた。特に『都市公論』には講演会・宣伝会の様子やそのときの演説原稿なども収録されており、都市研究会の活動を把握するのに適した資料である。
【得られた知見】
都市研究会は都市を「有機体」として説明し、そのなかで住民を「市民」として見出し、彼らに求めた「都市」の理解が二通りの方向性を有していたこと、その意識を醸成するためにポスターや映画、模型などの視覚メディアを活用していたことが判明した。
「有機体」に込められた意味の一つが「団体組織」であり、それを構成する都市住民は「市民」として都市に対して責任を有する存在であると措定されていた。「能率」が重要であった同時代的文脈の中で(新倉 2017)、都市計画によって都市の能率を高めるために「市民」の「自己改造」が必要であると説かれていた。もう一つの意味が「科学」である。大正期には社会政策の分野で「科学」と位置づけられた都市社会調査が重要なものとされはじめていたが、こうしたなかで都市研究会は「都市計画」が調査に基づいた客観的な「科学」であると強調することで、「市民」が都市計画を単に都市の装飾を整えるものだと「誤解」しないように努めていた。
都市計画運動が同時代の生活改善運動などの啓蒙運動と決定的に異なっていたのは、その公共性に対する訴えの強さである。それは都市計画に協力することが直ちに個々人の生活の向上につながらず、都市全体の衛生環境や交通の改善というやや抽象的かつ集団的な側面の利益が達成されるという構造になっているからだといえよう。
その構造を理解させるために視覚メディアは重要なものとして位置づけられていたのだが、同時に後藤ら都市研究会が目指していた都市計画当局と「市民」との関係が、その間の中間団体というようなものを想定せず、直接的に「市民」一人ひとりに知識を伝達し、啓蒙された理性的な「市民」によって構成される「有機体」として想定されていたことも見逃すべきではない。後藤たちの都市に対する理解がそもそもマス・コミュニケーション的だったのである。
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ポスター・セッション要旨
テレビメディア史から見る戦後日本社会の「中央」の変容
-広告代理店「萬年社」におけるテレビ番組制作の例をもとに-
森 美枝(同志社大学)
【キーワード】戦後テレビメディア史、東京一極集中、ネットチェンジ、スポンサーの動き、萬年社
【調査・研究の目的】
日本の社会は、1970年代におこる「いざなぎ景気」の終焉や石油ショックを契機として、地方都市が地盤沈下し、80年代には東京に人口が一極集中する状態となる。一方、テレビジョンは、1952年の放送開始以来、ラジオ、新聞といった旧メディアを徐々に追い抜き1975年に最大の広告媒体となった。
日本社会の東京一極集中と日本のテレビジョンの発展の歴史を重ねて語ることはできないだろうか。その鍵となったのが、大阪を発祥とする老舗広告代理店の「萬年社」である。
本研究は、日本の広告業の勃興期から広告業界を支え続けた老舗の広告代理店「萬年社」の動きを通して、1960年代から70年代後半までの戦後日本社会の変化を考察するものである。その目的は、現在の日本社会においてあらゆる機能が東京に一極集中していった過程を、メディア史の観点から明らかにすることにある。
萬年社とは、1890年、大阪に創業し、1910年に自社の業名として「広告代理業」という言葉を作り出した企業である。大阪にある萬年社を中心にして、広告業では、東京と並ぶもう一つの中心地として大阪が存在してきた。
萬年社は、東京に拠点をおく電通や博報堂の隆盛の陰に隠れていくなか、戦後、テレビ制作に乗り出す。同社のテレビ制作には特色があり、視聴者参加型の公開番組を制作することを得意としていた。放送を終了したのちも、萬年社が自社の社史に特記したのが『アップダウンクイズ』という番組である。この番組は、高視聴率を記録し、広告代理店である萬年社、スポンサーであるロート製薬、放送局である毎日放送の3社にとっての看板番組のひとつであった。
【調査・研究の方法・対象】
本研究では、『アップダウンクイズ』の萬年社の担当者、ロート製薬、毎日放送アナウンサーで同番組の司会を務めていた人物などへの聞き取り調査の結果から、この番組が当時の日本社会をいかに投影してきたのか、あるいは、日本社会にとってどのような役割を担っていたのかを明らかにする。
構成としては、まず、萬年社について、とくにテレビ広告が日本社会に入ってきたときに、どのように対応していったのかを中心に説明する。次に、日本のテレビジョンが草創期から成熟期へ向かっていく過程でのネットワークの形成とその整備の流れを追う。そして、『アップダウンクイズ』について萬年社、ロート製薬、毎日放送の立場から同番組を語ってもらった内容を示す。これらの結論として、戦後日本の東京一極集中とテレビジョンとの関わりを論じる。
【現時点で得られた知見】
本研究は、20年以上にわたって放送された日本のテレビ番組について、放送局、スポンサー、広告代理店の三者からの聞き取りをした非常に貴重なケースの一つである。
大阪で制作され、日曜日のゴールデンタイムに放送されていた、一問一答の真面目なクイズ番組は、やがて人気を失っていく。ロート製薬は、主力商品の変化から、他の番組や多メディアに広告費の投下を移行させていく。萬年社は、社会が機能を東京へ集中させていくことに抗いきれず、1999年に自己破産を申請する。『アップダウンクイズ』の誕生と発展、衰退が、大阪という大きな拠点が徐々に縮小し、東京一極へ集中していく結果の過程であることも示しているのである。
【今後の課題・展望】
内閣府の「圏域別の転入超過推移」のグラフから、1970年以降、大阪圏の数字が0を下回り、中央ではなくなったことが見て取れる。メディア史を超えて、経済学の観点から大阪という都市の発展と停滞を考察し、予測することで、本研究の学問的補強をしていくことが課題である。
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オンライン発表の対象となる発表要旨は
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