要旨の本文は、個人・共同研究発表者、ワークショップ・テーマ企画者、ポスターセッション発表者からいただいた原文をそのまま掲載しています。(2023年10月29日)(企画委員会) |
11月4日(土)
午前の部 10:00-12:15
午後の部 13:10-15:25
10:00-12:15 ワークショップ1
富士山とナショナリズム:近現代史における国家シンボルの再考
(企画:メディア史研究部会)
司会者:竹内幸絵(同志社大学)
問題提起者:須藤遙子(摂南大学)
討論者:小原真史(東京工芸大学)
討論者:植田彩芳子(京都府京都文化博物館)
【キーワード】:ナショナリズム、文化政策、パブリック・ディプロマシー、写真、近代絵画
本ワークショップは、日本の近現代史において富士山というシンボルが果たしてきたナショナルな作用に注目し、「富士神話」を批判的に検討するのが目的である。国防、広報・広告、写真、絵画等を中心に、ナショナリズム論、メディア史、文化政策学、芸術研究等を架橋し、新たな視座を提示することを目指す。
明治開国から戦中まで、富士山が天皇と並ぶ大日本帝国のシンボルであったことは周知の事実である。敗戦後に天皇の神話性は解体されたが、霊峰富士はそのまま生き続けている。たとえば1 年延期となった東京五輪2020では、富士山をモチーフにした聖火台に点火が行われた。また、2022年7月に凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬儀では、富士山をイメージした祭壇が設けられた。このように国家的な儀式において富士が繰り返し召喚されることは、フジヤマが一貫して国内外における日本の象徴であることを改めて示すと同時に、コロナ禍や元国家元首の殺害という社会的混乱を祓う呪術的要素も持っているといえよう。
本ワークショップにおいて最も問題視するのは、富士山を太古から普遍的・不変的な日本の象徴、あるいは心のよりどころとする言説や文化表象である。多くの言説は、古来より畏敬・崇拝されるアニミズムの対象であった富士山と、モダニズムにおける国家シンボルとしての富士山を意識的 無意識的に混同しているといえる。山としての富士はおよそ10 万年
前から存在するとされるが、それが日本の象徴として日本国民のナショナリティと結びつけられるのは明治開国以降のわずか150年ほどである。「象徴」という言葉自体がsymbolsymbolの訳語として明治期に生まれたものであり、富士のシンボル化を考える際には日本の近代国民国家の歴史と関連づけることが不可欠である。そこには、明らかに文化政策の概念があり、博覧会で富士山のイメージが頻繁に用いられたことからもパブリック・ディプロマシー((文化外交政策))とも深い関連があることは間違いない。
以上のようなアニミズムとモダニズムの接合にこそ日本のナショナリズムの特徴と問題があるにもかかわらず、従来の富士研究のほとんどは無邪気な愛国心がベースになっており、批判的研究は驚くほど少ない。こうした状況をふまえ、問題提起者の須藤遙子は、まず近現代史における国家シンボルとしての富士山を概観し、富士をア・プリオリに神格化し、その政治性に対する批判的まなざしが完全に欠如している現状の問題点を指摘する。次に、討論者の小原真史は、自身が20112011年に企画した展覧会「富士幻景――――富士にみる日本人の肖像」(IZU PHOTO MUSEUM)の内容紹介をベースに、幕末のペリー艦隊が見たフジヤマから終戦時の富士山までを日本の国内文化政策、諸外国による対日政策等と関連づけて解説する。最後に、同じく討論者の植田彩芳子が、生涯にわたって富士山を描き続けた画家・横山大観を中心に、近代絵画における富士の意味を論じる。
本ワークショップは、基盤研究(B)「富士山とナショナリズム::近現代史における神話的シンボルに関する学際的研究」(23H00595)のメンバーが中心となって企画される。2025年から26年にかけては、「富士山とナショナリズム展」((仮称))を数ヶ所で企画・開催し、広く社会発信を行う予定である。本年度にスタートしたばかりの研究であり、フロアとの積極的な意見交換によって研究の進展を図りたい。
ワークショップ2
ニュース砂漠と地域ジャーナリズムⅡ
―非営利NPO 法人「NEWS つくば」を事例として
(企画:ジャーナリズム研究・教育部会)
司会者:小川明子 名古屋大学
問題提起者:鈴木宏子 (NEWS つくば
問題提起者:山口和紀(立命館大学)
討論者:小黒純(同志社大学)
【キーワード】:ニュース砂漠、ハイパーローカル・ジャーナリズム、NPO 法人、大学とメディアの連携
デジタル社会の到来は、ニュース産業にも大きな影響をもたらしている。欧米諸国で「ニュース」砂漠現象が広がっている。世界各地で、メディア企業の記者の解雇や地域紙の消滅、統合が加速し、草の根民主主義に対する危機が伝えられている。国内に目を向けると、全国紙と地方紙の夕刊発行停止が相次ぐなど、「ニュース砂漠」が徐々に、しかし確実に広がりを見せている。その勢いは止まりそうにない。地域にニュースの空白地帯が生まれれれば、市民の政治参加への負の影響は避けられない。
こうした問題意識から、今年度春季大会ワークショップでは、地域に根ざすメディア、ハイパー・ローカル・ジャーナリズムの事例として、「屋久島ポスト」(鹿児島県)の活動を取り上げた。非常に小規模ながら地元の議会や行政を鋭く監視して報道する一方、地元メディアが地元の問題を追及することの難しさも報告された。こうした活動は、今後、住民団体やオンブズマンによる「草の根メディア」のモデルケースになりうるのではないかといった期待とともに、1) そもそも既存メディアは地域行政を監視していると言えるのか、2) 名誉毀損や誹謗中傷などのリスクにどう対応するのか、3) 取材費や運営費をどう捻出するのか、4) 取材の経験がない市民をどう育てるか、といった問題提起がなされた。
議論をさらに深めようと、本ワークショップでは、茨城県南部を拠点に“ネットによる新聞”を標榜する「NEWS つくば」の事例を取り上げる。2017 年10 月に発足。発信するコンテンツは地域のニュース、媒体はインターネット、運営は非営利のNPO 、という組み合わせで展開している。国内においては、非マスメディアでニュースを発信する形態としては先駆的な事例と言える。
編集の担い手は地域紙での取材経験がある記者たちが中心になっている。何より「読者が関心を持つニュース・コンテンツを提供する」 ことを眼目に置いている。
「NEWS つくば」は「屋久島ポスト」や、「Watchdog 」(滋賀県大津市)に比べると、ウェブで発信する点は共通するものの、組織の規模はやや大きく、カバーする地理的範囲も大きい。運営主体も非営利のNPO 法人が担う点で異なっている。
地元の筑波学院大学と連携協定を結んでいることも注目される。大学側は学内の施設の一部を編集室として提供し、ニュースの発信に協力する。
本ワークショップでは、取材と報道の現場からの報告を受け、活発な討論を期待したい。
ワークショップ3
スポーツ中継トークの研究をひらく
(企画:酒井信一郎会員)
司会・報告者:酒井信一郎(立教大学)
報告者:秋谷直矩(山口大学)
報告者:是永論(立教大学)
【キーワード】:スポーツ中継、メディアスポーツ、放送トーク、エスノメソドロジー・会話分析
本ワークショップは現代的なメディアスポーツの一形態であるスポーツ中継の主要な部分を構成するトークに着目するものである。ここでいうスポーツ中継とは放送ないし配信によって不特定多数の視聴者が競技や試合の観戦を行うことが可能となるコンテンツのことを指す。かつてスポーツ観戦は競技場に足を運ぶことと同義であった。放送通信技術の発達により、遠隔的なスポーツ観戦が可能となった。メディアによって作られたコンテンツを消費するスポーツ観戦の方が、現代では一般的になってきている。
スポーツ中継は「放送トーク番組」(Heritage & Clayman 2011; Huchby 2006 )の一種と捉えることができる。放送トーク番組は台本や原稿に対する依存の度合いが相対的に低い「フレッシュトーク」(Goffman 1981)を中心に進行することを特徴とする。この点において放送トーク番組はドラマやニュース番組から区別される。内容が競技の進行に依存するスポーツ中継のトークはきわめて「フレッシュ」な特徴を持つといえよう。さらに放送トーク番組はその場に不在の不特定多数の視聴者に届けられることを前提に制作される。実況者の発話は独り言ではなくオーディエンスに宛てられているものである。実況者と解説者の間で交わされる会話も同様に、オーディエンスに向けて開かれている必要がある。他方、従来の番組という枠組みにとらわれないスポーツ中継のあり方がインターネットで登場しているのも注目されるところである(Chovanec 2018)。
スポーツ中継トークの研究には二つの方向性がある(劉・細馬2016)。ひとつの方向性は実況表現に着目するものである。スポーツアナウンサートーク研究として社会言語学の領域で展開されてきた(Reaser 2003)ほか、アナウンサー経験者自身による知見が存在する(山本2003)。いまひとつの方向性は、実況者と解説者による相互行為に着目するものである。後者の方向性でスポーツ中継トークの質的な内容研究を進めているのが、本ワークショップの登壇者が専門とするエスノメソドロジー・会話分析(EMCA)研究である(岡田2002;劉・細馬 2016, 2017; 是永 2017; Cashman & Raymond 2014; Raymond & Cashman 2022)。ただし放送トーク研究のなかでニュースインタビュー研究や視聴者参加型番組研究の蓄積にEMCA が多大な貢献を果たしてきたことに比べて、スポーツ中継研究の蓄積はいまだ僅かなものにとどまっている。本ワークショップはこうしたリサーチギャップを埋める探索的な性格を持つものであるが、とりわけオーディエンスに対してメディア上の表現に一定の理解を導く「見ること・聞くことのデザイン」(是永2017)という観点から、トークと映像の相互作用も考慮に入れたスポーツ中継研究を考えたい。
以上の問題関心を背景に、本ワークショップはスポーツ中継トークの研究を通じて「メディアスポーツをうみだしてきた基盤」(橋本 2002:26-27)に対する理解を深めることに資する狙いがある。本ワークショップでは3名の研究者がそれぞれ異なるスポーツ中継のデータより得られた知見を交換する、ラウンドテーブル形式を採用する。是永報告はサッカー中継を対象に、選手の動きへの関与にしたがって視聴者の興味につながる形でチームの戦術の様子を可視化していくトークを分析する。秋谷報告はバレーボール中継を対象に、選手の視覚や意図といった映像上確認不可能な事柄に対して接近していく専門的なトークを分析する。酒井報告はモータースポーツ中継を対象に、突発的に発生する事態を直ちに理解可能なものとしてく即時性の高いトークを分析する。以上3本の報告に加えて、マス・コミュニケーション研究とスポーツ中継トーク研究の接点、放送トーク番組研究の歴史、方法論的課題といった序説をなす報告を酒井が行う。
ワークショップ4
『メディア考古学とは何か?』とは何か?
(企画:理論研究部会)
司会:光岡寿郎(東京経済大学)
報告者:大久保遼(明治学院大学)
討論者:増田展大(九州大学)
討論者:清水知子(東京藝術大学)
【キーワード】:メディア考古学、アートプラクティス、デジタル文化
近年、ようやく日本のメディア研究においても「メディア考古学」の認知は定着したように思われる。これまで日本においてメディア考古学が紹介されていく過程を簡単にひもといてみれば、『メディア考古学:過去・現在・未来の対話』(太田純貴訳、NTT 出版、2015)で知られ、第一世代を代表するエルキ・フータモ(Erkki Huhtamo)については、1990 年代半ばにはすでに季刊『InterCommunication 』(No 14 、1995)に翻訳が掲載され、30 年が経過しようとしている。その後もフータモ自身度々来日し数多くのシンポジウム、講演会に登壇してきた。そのせいもあってか、2000 年代に入るとフータモやジークフリート・ツィーリンスキー(Siegfried Zielinski)といった第一世代のメディア考古学の影響は、まず映像文化やメディア・アートの研究者に現れていく。その要因の一つは、フータモにしても本WS で取り上げる『メディア考古学とは何か?』の著者であるユッシ・パリッカ(Yussi Parikka )にしても、「メディア/アート・プラクティス(media art practice)」をその思考の源泉として重視しているからだろう。
続く2010 年代には、メディア研究の領域でもその独特のメディア史観、物質性に対する眼差しからその議論に注目が集まっていく。本学会においても、2016 年7 月にはメディア史研究部会において「メディア考古学の展望」と題した研究会が実施されており、まずは、メディアの歴史の描き方としてのメディア考古学の可能性の検討が始まったと言えるだろう。一方で、この2010 年代の半ばに、パリッカは英語圏で精力的にその成果を発表し続けることになる。たとえば、本書の原著となるWhat is Media Archaeology ?(Polity)が2012 年、太田純貴の訳による『メディア地質学』(フィルムアート社、2023)の原著である A Geology of Media (University of Minnesota Press)は2015 年に出版されている。パリッカ、もしくは第二世代としてのメディア考古学がフータモと異なるのは、第一世代の研究成果はときにある種の職人芸として囲い込まれていく傾向があったのに対して、前者は英語圏およびヨーロッパのメディア研究の地図上にメディア考古学の位置をプロットする、いわばある種の体系化を企図していた点にある。この学的志向については、2023 年3 月の理論研究部会「メディア地質学と未来の化石 デジタル文化の地層を採掘する」においても触れられているが、その可能性が十分に議論されたとまでは言えない。
そこで、上述の経緯を踏まえて、本WS では2023 年7 月に公刊された『メディア考古学とは何か? デジタル時代のメディア文化研究』(東京大学出版会)をきっかけに、「メディア考古学」がいかなる研究領域で、かついかなる学的可能性を持ちうるのかを広く議論する
機会としたい。まず、本書の概要について訳者のお一人である大久保遼氏(明治学院大学)からご紹介いただく。そのうえで、長年メディア考古学の可能性を検討してきた増田展大氏(九州大学)からはその理論的射程を中心に、また清水知子氏(東京藝術大学)からはメディア考古学に特徴的なメディア研究の方法としての「アート(作品)」という観点にもふれていただいたうえで、会場に議論を開きたい。本書『メディア考古学とは何か?』をきっかけに関心を持った会員も、継続して関心を持ち続けている会員にも参加いただき、活発な議論がなされる場としたい。
13:10-15:25 ワークショップ5
ラジオと戦争 放送人たちの「報国」をめぐって ―――放送の
戦争責任
(企画:放送研究部会)
司会者:金平茂紀(沖縄国際大学)
司会者:太田奈名子(清泉女子大学)
問題提起者:大森淳郎(元NHK)
討論者:秋山浩之(TBS)
【キーワード】:放送の公共性、戦争責任、放送、「報国」、「ETV2001 」改変事件
NHK 放送文化研究所に2016 年から2022 年まで在籍された大森淳郎氏が、2023 年6 月25 日にNHK 出版より刊行した著書『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』は、長年にわたる取材と膨大な資料の収集・分析をへて数年がかりで出版にこぎつけた労作である。刊行以降、放送界のみならず、広くジャーナリズムの世界、学術研究に従事する人々に深く静かな衝撃が拡がっている。過去の戦争と放送の関係のありようを研究した著書としては、屈指の成果としてこれからも記憶されることになるのではないか。大森氏は、生存者、物故者を問わず、数多くの日本放送協会の職員、退職者、関係者らから貴重な証言を収集した上で、それらを裏付ける資料・エビデンスを入手するとともに、緻密な分析を加え、その結果得られた知見を、いま現在の放送の在り方に資するべく、懸命に作業を継続してこられた。その作業自体が驚嘆に値するものと、本ワークショップ提案者は思料する。2023 年のいわゆる「八月ジャーナリズム」の諸成果のなかでも突出した業績と評価する声が多数聞かれる。本書のあとがきにおいて、大森氏は「放送の公共性とは何か」という若い時から持っていた問いを、戦時ラジオ放送にまで遡って自分なりに検証してみたいと思ったと記している。そして、戦時中インドネシアで現地住民の殲滅作戦を敢行した旧日本軍の中隊長を訪ねて大森氏が質問した際に、自分のなかで膨らんだ思いを率直に告白している。『――まるで(自分は)正義の味方みたいだが、自分の足元はどうなんだ。NHK の責任は問わずに済ませるのか この本は、そんな思いのひとつの帰結である。』もうひとつ、この本を書いた理由として大森氏があげていた事実がある。それはNHKと政治との関係が露骨な形で表面化した『ETV2001 』の改編問題で受けた衝撃について記していた。大森氏は自分の内部の声を率直に述べていた。『――『ETV2001 』の改変が衝撃的だったと言うのなら、君がやるべきことは、身を挺してでも真相究明のために闘うことではなかったのか。そうしなかった君に、そういう番組を作り、こういう本を書く資格はあるのか 私はこう答えるしかない。 ないかもしれません。戦争の時代の先輩たちと同じように、私は組織の限界の中で仕事をしてきた人間です。でも、だから、ひと事ではないから書きたかったんです 』
討論者の秋山浩之氏は、民間放送局TBS において、長らくドキュメンタリーの製作等に関わってこられたが、奇しくも秋山氏も、NHK ・BS1において、2022 年12 月に『軍人スポークㇲマンの戦争~大本営発表の真実』を放送した実績がある。秋山氏の制作意図も、大森氏の思いと重なるところがあるのではないか。当時の放送、戦争報道において、大本営発表の役割を担った軍人たちは、戦中、そして戦後、どのような運命をたどったのか、そして何を言い残していったのか。番組はそうした事実を活写していた。
大森氏の作品、秋山氏の作品は互いに共鳴、共振しあう関係にあるのかもしれない。今回のワークショップでは、2人が率直に話を展開することで、戦争という非常事態のなかで、放送が本来果たすべき「公共性」がどのように変容・変質していくものなのか、その責任は戦後どのように問われてきたのかを率直に参加者の皆さんを巻き込んで議論を展開できれば、と考えている。
司会者は、長年テレビ報道に関わってきて、戦争報道の現場も経験している元TBSのジャーナリスト金平茂紀、清泉女子大学で放送の公共性をめぐる研究を続ける太田奈名子が担当する。秋季大会は残念ながらオンライン開催という形だが、逆にオンラインの利点を生かして、参加者たちの積極的なコミットを期待したい。
ワークショップ6
巨大ロボットと巨大怪獣の〈平成〉
―サブカルチャー的想像力にみる時間と空間
(企画:メディア文化部会)
司会:山本昭宏(神戸市外国語大学)
問題提起者:木村至聖(甲南女子大学)
問題提起者:塚田修一(相模女子大学)
討論者:赤上裕幸(防衛大学校)
【キーワード】:特撮、アニメーション、都市表象、ローカリティ、平成史
これまで、巨大ロボットや巨大怪獣といったメディアコンテンツは様々な文脈から論じられてきた。日本独特の進化を遂げたコンテンツであることから日本文化論の俎上にのせられたこともあるし、時には社会のあり方を反映するものとして定点観測の対象になることもある。
一方で、こうしたコンテンツを生み出すサブカルチャー的想像力が「なぜ」、「どのように」文化的背景から影響を受け、また拘束されているのか、といった理論的側面が事例横断的に検討される機会は決して多くない。
本ワークショップではこうした問題意識のもと、平成の巨大ロボットアニメと巨大怪獣の登場する特撮を題材として、時代性および地域性とメディアコンテンツの関係について議論する。平成という時代に限定したのは、近年、その時代性を論じる研究が増加しつつあり、時代のスパンから考えても議論の前提となる基礎をある程度共有しやすいことに加え、サブカルチャー的想像力の過去と現在をつなぐ位置にあることも大きい。
提示される具体的な問いは以下の2 点である。
第1 は「平成の想像力」はどのような形で、なぜそのように表現されたのかという問いである。例えばテクノロジーの発達した未来社会のようなものを想像するにせよ、全く異なる常識を持った異世界を想像するにせよ、そこからは、平成日本特有の想像力のあり様のみならず、当時のサブカルチャー的想像力がそうした形をとった理由も見えてくるはずだ。
第2 にこうした想像力を喚起させる場所にはどのような性質があるのかを問うてみたい。「人々の想像力を掻き立てる場所はどこか?」という問いは、平成という時代の想像力の原風景を明らかにするのみならず、想像力に対してローカリティが持つ拘束性の本質を炙り出してくれるはずである。
問題提起者にはアニメーションに表れた想像力を様々な角度から検討した論集『巨大ロボットの社会学―戦後日本が生んだ想像力のゆくえ』の編著者の1人である木村至聖氏、および「怪獣と平成の景観―『ガメラ2レギオン襲来』(1996 年)と郊外ロードサイド 」などの一連の論文で特撮と現実のローカリティの関係を論じている塚田修一氏を迎える。問題提起者を2 名としたのは、アニメと特撮、そして社会学と表象文化論の観点を交差させることによって、本ワークショップの問いをふくらませ、どの領域の研究者にとっても実りあるものにするためである。
また、指定討論者には多くのSF作品を駆使しながら、歴史の中の想像力について論じた『「もしもあの時」の社会学 ────歴史にifがあったなら』の著者である赤上裕幸氏を迎え、議論の充実をはかる。
なお、偶然ながら、登壇者は司会者も含め全員が1980年代前半生まれである。この世代は概ね平成の30年間に人格形成をし、その最初に出会ったのはおそらく、現実の社会であるより前にアニメや特撮などの世界であった。その意味で、今回の議論は遅ればせながら平成という時代を再考する「帰ってきた平成論」でもある。本ワークショップが「平成」を通して、メディア文化における想像力と現実の普遍的な関係を解き明かす一助となれば幸いである。"
ワークショップ7
デジタル化で変化する同人活動をメディア研究として如何に捉えるか
(企画:ネットワーク社会研究部会)
司会者:山崎隆広(群馬県立女子大学)
問題提起者:玉川博章(日本大学)
問題提起者:小林信重(東北学院大学)
【キーワード】:同人誌 同人ゲーム オルタナティブメディア 電子化 デジタル化
本ワークショップでは、コミックマーケットに代表される同人活動を事例とし、この分野で長年研究をしてきた研究者二名を問題提起者に据え、研究動向、研究成果を報告するとともに、そこから、メディア研究として、それをどのように捉えることができるのかを、参加者も含め検討したいと考えている。
同人活動は、従来のマスコミュニケーション研究の文脈では、マスメディアというよりも、アニメやマンガなどのファンによる活動として受容者研究として扱われる傾向が見られた。だが、マスコミにとらわれないメディア研究の枠組みであれば、かつてのミニコミと同様に、「小さなメディア」として、同人活動をミクロな出版活動ととらえることができるだろう。
さらに今世紀に入り、印刷コスト低下やデジタル技術、流通インフラの整備、ネットワーク配信等により同人誌・同人ゲームは大きく変化している。従来の同人誌即売会で紙の同人誌を頒布するという活動に留まらなくなっている現状も踏まえ、この分野をメディア研究としていかに捉えることができるのかを考えたい。
問題提起者の玉川博章と小林(七邊)信重の2 人による報告により、先述の同人活動を巡る研究状況の報告と、問題提起を複数の角度から行う。玉川博章は、約二十年にわたり同人誌即売会に関する研究を行ってきた。その経験から、マスメディアを前提としたファン研究という枠組みと、DIY 的要素を持つインディペンデントなオルタナティブメディアとしての側面の両面から同人活動を検討する。さらに、同人誌即売会主催者への調査から、同人誌を頒布する場を作るという活動の意義を考える。また、小林信重はインディペンデントなゲーム制作者の研究を続けている。同人ソフト・同人ゲームと呼ばれるジャンルでは、同人誌と呼ばれる本の形態ではなく、ゲームなどをCD ROM やDVD ROM にパッケージ化し同人誌即売会で販売する活動が行われていた。だが、インターネットの発達により、直接ネットワークで流通させることが容易となり、ゲーム制作者の間でパッケージを利用しない頒布が当たり前となりつつある事態も踏まえ、同人ゲームやインディーゲームなど大手メーカー以外のゲーム制作者の動向や意識を分析してきた。この2 人の問題提起者により、異なった角度からの同人活動の分析と問題提起を提示する。