2021年秋季大会要旨集 #01

要旨の本文は、個人・共同研究発表者、ワークショップ・テーマ企画者、ポスターセッション発表者からいただいた原文をそのまま掲載しています。(企画委員会)

> 要旨集 #02(ワークショップ、シンポジウム)


個人・共同研究発表1

「自己責任論」の記号イデオロギーに関する言語人類学的分析
――イラク日本人人質事件における初期報道に着目して

青山 俊之 (筑波大学大学院 院生)

【キーワード】 自己責任論、言語人類学、ラベリング、フレーム、記号イデオロギー

【研究の目的】
 本研究は、2004年イラク日本人人質事件における「自己責任論」に関する初期報道に表出するメディア談話と政治談話に着目し、言語人類学的な観点からその記号イデオロギーを明らかにすることを目指す。

【先行研究との差異】
 本研究の新規性は次の二つである。一つ目の新規性は、本研究が主に依拠する言語人類学的な観点からメディアコミュニケーションとそのフレーム構築過程の分析事例を示す点である。言語人類学におけるディスコースは、社会的実践として為される記号的なコミュニケーションを包括的に含む。ここには、言語構造、個人・組織・制度といった主体からその権力・イデオロギー、さらにその歴史的変遷を介した「知」の継承・集団形成にはたらく作用とその蓄積を含む。そのため、言語人類学では批判的談話研究とも類似的にディスコースを社会的実践と捉える。一方、マスコミュニケーション研究や批判的談話研究は、政治的コミュニケーションに焦点化した研究群である。本研究では、メディアフレームに関する理論枠組みや分析手法を援用しながら、イラク日本人人質事件における初期報道とその文化的規範を分析する。
 二つ目の新規性は、「自己責任」を用いた実際のディスコースの意味づけに関与する重層的な記号イデオロギーの実態を示す点である。現代社会の主要な統治性である新自由主義をはじめ、後期近代社会における資本主義ヘゲモニーや金融体制・労働環境・地方分権・福祉国家論などを中心に、「自己責任」の哲学的・政治学的・社会学的な分析や批判が行われてきた。しかしながら、実際に交わされる「自己責任論」の質的分析はほとんど為されていない。本研究では、複合名詞としての「自己-責任」と、その意味形式や批判的議論の理由づけの解釈的曖昧性・多義性やその影響を記号イデオロギーと捉える。「今ここ」の場・出来事から離れた時空間を介し、再コンテクスト化されるメディア談話や政治談話、特に社会的争点を生み出す出来事に関するディスコースとその記号イデオロギーを言語人類学的な観点から分析する。

【研究の方法】
 本研究では、言語人類学とメディア研究、特にメディアフレームに関する分析方法を接続する論点を提示する。ここでいうメディアフレームとは、ラベリング理論において「社会問題」が構築される過程に着目し、そこには当該社会におけるコモンセンスやその秩序-逸脱が露呈すること、またメディアフレームを構築するヘゲモニーといった社会文化的メカニズムが生じる環境的状況・条件に着目する議論を指す。そうした視座は、言語人類学における包括的なディスコース観と接続可能である。一方、メディア研究におけるテクスト分析やフレーム分析では、曖昧に文化概念が用いられており、その位置づけは言語人類学における「文化」に対する視座とは異なる。それを踏まえ、特に明示的な争点が定まりにくい「問題」に関する新聞報道の「規模」や新聞社・購読者との「文化的共鳴」を構築する社説に介在する諸要素の発見的なフレーム分析手法を援用する。本研究の分析対象である「初期報道」は、朝日新聞と読売新聞のデータベースを用いて、2004年4月の一ヶ月間における「イラク、人質」を含んだ両紙の記事数と社説とする。

【得られた知見】
 両紙の記事数を比較すると、記事総数の違いは見られない。しかし、事件発覚初期と人質解放以降の時期に区分すると、初期段階の記事数は読売新聞の方が多い一方、解放以降は朝日新聞の方が多い。この理由は、読売新聞は人質事件発覚の初期段階で「国家」や「政治」的な観点から記事を展開していたのに対し、朝日新聞は人質解放後に人質が関わる非営利活動やジャーナリストに対する「自己責任」を問う考えに批判的な記事を取り上げていたことにある。保守系の読売新聞、リベラル系の朝日新聞の政治的イデオロギーに応じた報道が為されており、「不用意さを避けるべき」という意味では人質の行為とその結果に対する両紙における「責任」の認識には大きな差異は見られない。この意味での「責任」にはコモンセンスとしての文化的共鳴が示されていた。
 さらに、この事件のようなリスク対応として、行政府には国民を保護する責任はあるが、それが生じる危険な事態を回避するよう国民に呼びかける上で自己責任が用いられていた。「迷惑」をかけないように、リスクを認知した上でそれを軽減・回避する「自己責任の原則」は、人質の批判者(保守系)にも擁護者(リベラル系)にも共有され、その両者に否定し難い記号としてその意味が問われ続ける強い再帰性がはたらいた。以上から、この事件を知る参与者にとって、意識的・無意識的に自己責任ディスコースに対する曖昧な心象を抱かせる事態こそが、この事件における自己責任ディスコースの記号イデオロギーの一端であることを明らかにした。


個人・共同研究発表1

『毎日新聞』記事における「心の闇」の内容分析

赤羽 由起夫 (和光大学)

【キーワード】 心の闇、内容分析、事件、作品

【研究の目的】
 本報告の目的は、『毎日新聞』において「心の闇」を用いた新聞記事の内容分析をおこない、「心の闇」という言葉の使用法の全体像を把握することである。

【先行研究との差異】
 「心の闇」を用いた新聞記事の研究は、これまで犯罪報道を中心におこなわれてきた。代表的な研究としては、1990年代から2000年代の少年犯罪報道を対象とした牧野智和(2008)「少年犯罪をめぐる『まなざし』の変容」(羽渕一代編『どこか〈問題化〉される若者たち』恒星社厚生閣所収)や、赤羽由起夫(2013)「なぜ『心の闇』は語られたのか」(『社会学評論』64(1)所収)、神戸連続児童殺傷事件(1997年)の報道を対象としてた牧野智和(2015)「神戸・連続児童殺傷事件報道の再構成/再検証」(『人間関係学研究』17所収)、1990年代から2000年代の犯罪報道全体を対象とした鈴木智之(2013)『「心の闇」と動機の語彙――犯罪報道の一九九〇年代』青弓社)があげられる。
 これらの研究は、たしかに犯罪報道における「心の闇」の使用法を明らかにしてきた。しかし、それは逆に言えば犯罪報道における「心の闇」のみが明らかにされているため、それ以外の「心の闇」の使用法を明らかにできていないことも意味している。実際、「心の闇」は、芸術作品の紹介の記事でこそ多く用いられており、その使用法がまったく明らかにされていないのである。そこで本報告では芸術作品の紹介における「心の闇」を含めて、すべての「心の闇」を対象にして、新聞記事の内容分析をおこなう。

【研究の方法】
 本報告では、毎日新聞社「毎索」において検索できた『毎日新聞』東京本社発行版の本紙・全国版の見出しと本文において「心の闇」(ひらがな・カタカナ表記を含む)を使用した記事(「心の闇」記事と略記)を対象として、内容分析をおこなった。
 検索の結果、対象となった記事は328件(1987年1月1日~2020年12月31日)であった。対象として『毎日新聞』を選択した理由は、全国三大紙の中で1番記事件数が少なく、全体的な傾向の把握が容易だったためである。
 内容分析では、まず既発表の分析として、①「心の闇」記事の内容の分類、②記事分類別での「心の闇」の共起語の分析をおこなった。その結果は次の2点である。
 第1に、「心の闇」記事をその内容から分類したところ、犯罪事件や事件報道のあり方を扱った「事件」(81件、「事件」記事と略)、芸術作品やノンフィクション作品を扱った「作品」(199件、「作品」記事と略)、人間の苦悩を扱った「苦悩」(20件)、これらに含まれない「その他」(10件)に分類することができた。
 第2に、「心の闇」の共起語に着目すると、「事件」記事では、「『少年』の『心の闇』が『解明』できない」という使用法、「作品」記事では、「『人間』の『心の闇』を『描く』」という使用法が典型的なものであることが明らかになった。
 本報告では、以上の分析結果にもとづきつつ、①「事件」記事において、「心の闇」との関連が指摘された事件の分類、「心の闇」をもつと指摘された主体の分類をおこなうとともに、②「作品」記事において、「心の闇」との関連が指摘された作品の分類、「心の闇」をもつと指摘された主体の分類をおこない、③これらの傾向の比較分析をおこなう。

【得られた知見】
 得られた知見は以下の通りである。
 第1に、「事件」記事において、「心の闇」との関連が指摘された事件は、少年事件が半数を占めていた。また、「作品」記事と比較すると、報道のあり方や「心の闇」という言葉への批判も見られた。
 第2に、「作品」記事において、「心の闇」との関連が指摘された作品は、小説、映画、演劇の順に多く、創作の物語がその大半を占めていた。また、「事件」記事と比較すれば、「心の闇」という言葉への批判は少なかった。
 第3に、「事件」記事において、「心の闇」をもつと指摘された主体は、少年事件が多いことからもわかるように、未成年の男性が圧倒的に多かった。
 第4に、「作品」記事において、「心の闇」をもつと指摘された主体は、人間一般(人間、人、現代人、日本人、誰もが、等)が多かった。性別では女性より男性が多いものの、「事件」記事と比較すれば、偏りは少なかった。また、未成年も見られるものの、「事件」記事と比較すれば、少なかった。
 以上の知見をまとめると、「事件」記事では、実際の犯罪事件における「少年」の「心の闇」が論じられた一方、「作品」記事では、創作の物語における「人間」の「心の闇」が論じられた、という対比が見られることが明らかになった。


個人・共同研究発表1

新聞社の態度と憲法改正に関する世論調査結果の報道
――朝日・読売の見出し分析を中心に

永井 健太郎 (明治大学)

【キーワード】 憲法、憲法9条、新聞、世論調査、内容分析

【研究の目的】
 本研究の目的は、憲法に関する世論調査結果を日本の新聞がどのように報道していたのかを明らかにするものである。日本国憲法が1947年5月3日に施行されて以来、70年以上にわたりその改正が議論され続けている。その中で日本の新聞社は、人々の憲法に対する考え方を政治に反映させるため、世論調査を行い、国民の憲法に対する考え方や意見を伝え続けている。
 しかし、メディアはありのままの現実を伝えるわけではない。その報道プロセスにおいて、様々な要因が作用することで、ある出来事のいくつかの側面が選択され、そして強調される。それは世論調査による報道にも当てはまり、メディア表象を通して世論像が構築される。本研究は、新聞が世論調査結果の報道を通して、憲法に対する世論をどのように表象してきたのかを解明する。

【先行研究との差異】
 本研究の目的は、憲法に対する新聞社の態度が、科学的な手法である世論調査の結果を報じる際に、どのように作用しているのかを明らかにすることである。
 朝日新聞は護憲派であり、読売新聞は自社で改憲試案を提示するほどの改憲派であることは一般的によく知られている。さらに、これまでの先行研究が、社説(笠原 2015; 梶居 2012,2017)、全体的な論調(金子 2021)などを分析し、新聞社の態度が報道に現れていることを明らかにしている。しかし、世論調査結果の報道に対して、これらの傾向が出ているのかを検証した研究はみあたらない。
 世論調査は、人々の意見の分布を統計的に明らかにするものであり、その結果はあくまでも意見の分布でしかない。しかし、報道という段階においては世論調査の結果は部分的に選択され、強調される。その結果として、新聞社のイデオロギーや報道姿勢が反映した世論像が構築される可能性がある。この点に注目した永井(2021)は、環境をテーマに分析し、新聞社が恣意的に世論調査結果を選択・強調し、「環境意識の高い日本人」という世論像を構築してきたことを明らかにしている。本研究は、永井(2021)の研究成果を踏まえ、憲法の世論調査結果の報道へとその分析を拡張するものである。

【研究の方法】
 本研究は、日本の新聞社である読売新聞と朝日新聞を対象とし、記事の見出しを中心に分析を行う。分析期間は、1988年1月から2020年5月までとする。各社のアーカイブにて、「憲法 and 世論」にて検索を行い得られた検索結果より、世論調査結果を報じる記事を選別する。選別した結果、朝日は52、読売は71となり、合計123となった。
 新聞社による選択・強調を明らかにするために、記事のタイトルであり、また、読者の目を引くためのものである「見出し」に注目する。選別した記事に含まれる小さい見出しを含めた「見出し」は合計424(朝日122;読売302)である。これらの見出しに対して、内容から読み取り作成した18の分類項目による分類を行った。さらに、見出しが伝える多数派・少数派の印象を分類し、掲載される世論調査結果の偏りを探った。

【得られた知見】
 朝日新聞は、憲法に関する論点を一部に焦点化しつつ、9条の保持と改憲を引き延ばす戦略を取っていることが明らかになった。まず、朝日は「憲法改正」「憲法9条」「安倍・自民党案」の世論調査結果を見出しで多く扱い、憲法に関する世論を限定的に表象する。さらに、9条改正反対の結果、または、憲法改正支持と9条改正反対を見出しで併記させることで、9条改正を世論が望んでいないことを強調する。さらに、改憲議論が活発化した第2次安倍政権下では、「安倍・自民党案」に対する世論の低い評価や、議論が不十分だという見出しを掲載することで、まだ改憲する時期ではないことを強調していることが明らかになった。
 一方、読売新聞は、多様な論点を提示しつつも、憲法改正を支持する結果を見出しに打ち出し、憲法改正を望む世論を構築する。読売は、朝日と同等に「憲法改正」を扱っているが、「憲法9条」と「安倍・自民党案」を強調することは少ない。逆に、「憲法論議」や「国際貢献」「有事法制」、二院制改革や96条などの「手続き」に関して、朝日よりも多く見出しで取り上げ、憲法論議の多様性を提示している。しかし、「憲法改正」「9条改正」支持が多数派であることを強調する見出しを一貫して多く掲載していることも明らかになった。
 本研究を通して、朝日・読売が持つイデオロギーが世論調査結果の報道においても機能しており、世論調査の結果を恣意的に選択、強調する2社の戦略を示すことができた。本研究の結果は、新聞社が憲法世論のイメージを構築、共有することで、改憲議論を方向付けてきたこと示すことができた。


個人・共同研究発表1

『福島民報』と『福島民友』の初期原発事故報道
――通信社配信記事に着目して

矢内 真理子 (同志社大学 学習支援・教育開発センター)

【キーワード】 福島民報、福島民友、地方紙、東日本大震災、福島第一原子力発電所事故

【研究の目的】
 本研究の目的は、2011年3月11日以降に起きた福島第一原子力発電所事故直後の『福島民報』と『福島民友』の報道について、「情報源」に着目して比較検討を行い、それにより原発事故報道の特異性を明らかにすることである。筆者はこれまでにも「情報源」に着目して『毎日新聞』(「署名記事からみる福島原発事故報道―『毎日新聞』を事例に―」(2020年度秋季大会))、と『いわき民報』(「『いわき民報』の東日本大震災報道」(2021年度春季大会))の紙面分析を行っており、本研究はこれらの研究と接続するものである。

【先行研究との差異】
 東日本大震災と原発事故報道を対象とする研究は、遠藤薫(2012)『メディアは大震災・原発事故をどう語ったか』(東京電機大学出版局)や福田充(2012)『大震災とメディア―東日本大震災の教訓』(北樹出版)などが挙げられる。
 『民報』と『民友』の原発事故報道を扱った紙面分析の研究には、山田健太(2013)がある。山田は『3.11とメディア』(トランスビュー)で、震災発生から1カ月の新聞14紙の1面の比較を行い、2紙も対象となった。山田は朝日の事故初期の紙面展開を紹介し「他の新聞も、多少の濃淡はあるものの、およそ同じトーンの紙面づくりであったといえる(地方紙の場合も、共同や時事の通信社配信を利用している関係で、おおよそ在京紙と同様の紙面づくりであった)。」(p.127)と指摘した。確かに後の「得られた知見」の項で述べるように、2紙は通信社配信記事(以下、配信記事)を利用している。ただし、山田は具体的にどの新聞が、配信記事を何本利用しているのか、その詳細を明らかにしていない。また1面に限定した分析のため、原発事故報道の紙面があたかも配信記事のみで埋められているという誤解を与えかねない。そこで本研究は先行研究で曖昧にされているこれらの問題を検証する。

【研究の方法】
 2011年3月12日から18日までの『民報』と『民友』を対象とする。なお『民報』はCD-ROM版の縮刷版を使用した。『民友』は縮刷版がないため、原紙の複写を近畿大学図書館より、また原紙を福島民友新聞社大阪支社から取り寄せ確認した。
 本研究は先述の『毎日新聞』、『いわき民報』の紙面分析と問題意識を同じくするが、分析の方法には違いがある。これらの研究では署名をもとにして情報源を分類してきたが、『民報』と『民友』における署名記事は少ない。例えば『民報』では記者の被災地ルポや論説、『民友』でも同様に被災地ルポで署名が用いられた。また両紙ともに通信社による海外からの配信記事に署名がある程度である。
 そこで本研究は、2紙が原発事故を報道する際の情報源として、配信記事をどれだけ利用したのか(量的分析)、また2紙が利用した配信記事はどの程度一致するのか(質的分析)を検証することにした。そのために、次の方法を採る。
(1) 原発事故を取り上げた記事を特定する
(2) 2紙を比較して、記事の一致の有無を判定する
(3) 記事が一致する場合、配信記事を利用している可能性が高いと判定する。一致しない場合、独自取材に基づく記事の可能性が高いと判定する。

【得られた知見】
 『民報』と『民友』を比較した結果、1 面以外の面の原発事故報道でも記事の一致を確認し、配信記事を利用している可能性が高いことが明らかとなった。利用している記事に共通しているのは、原発事故に直接関係する内容であり、現場の福島では得られない情報だった。ただ、記事の扱い方には次の通り、違いを確認できる。
(1) 見出しと本文が完全に一致(Ⅰ:写真・図表なし、Ⅱ:写真・図表あり。以下(2)(3)も同じ)
(2) 見出しは一致しないが、本文は一致
(3) 見出し・本文ともに部分一致
 こうした違いが生じた理由の一つは、レイアウト上の問題である。つまり紙面の構成上、写真・図表を挿入できない、文字数の制約があるなどである。また情報の要不要を判断できる内容であった可能性も考えられる。一方で、(1)(2)の記事については、ニュースバリューが高いと判断した可能性、専門性の高い内容であり要不要を判断できずそのまま掲載した可能性が考えられる。上記以外の記事、つまり独自取材に基づく記事もある。しかしそれらは原発事故に直接関係する内容ではなく、原発付近から避難してきた住民の声が中心である。
 本研究の結果、矢内(2020、2021)と同様に、原発事故報道において、特に事故の状況を報じる場合、地元メディアでも、東京のメディア(今回は通信社)の配信を用いざるを得ないことが明らかとなった。そして事故現場で直接取材できない特異性が、原発事故報道には付随していることが改めて浮き彫りとなった。
 本研究は、JSPS科研費19K13928の助成を受けた。また、本研究にあたり、福島民友新聞社大阪支社に紙面の閲覧についてご協力をいただいた。


個人・共同研究発表2

ジャーナリズムとしてのリアリティTV?
――『クィア・アイ』Netflix版における連帯の政治

田中 瑛 (東京大学大学院 院生)

【キーワード】 リアリティTV、ジャーナリズム、真正性、声なき声、異種混淆

【研究の目的】
 本研究では、娯楽番組の一種として理解されてきたリアリティTV を、「声なき声」を真正なものとして析出するジャーナリズムの可能性を示唆する文化的な実践として評価し、それがどのような仕組みによって可能であるのかを、リアリティ番組『クィア・アイ』(Netflix、2018年~)の内容分析を通じて示す。これは、ジャーナリズムには「声なき声」の活性化という積極的な役割が期待され始めており(林 2013; 田中 2020)、事実性や客観性だけがジャーナリズムを正当化する要因とは言い難くなっている状況を踏まえて、現代社会におけるジャーナリズムの在り方を模索するものである。

【先行研究との差異】
 リアリティTVは衆人監視を通じて析出される実在の人物の「真正」な行為、内面描写を商品化する番組群であり、その窃視的な要素が低俗で逸脱的だと批判されることが多い。また、出演者による戦略的な自己開示が「感情労働」として搾取されていること(Couldry 2008)、社会的な意思決定が番組に投影されることから支配的な価値観が再生産され、ジェンダーや人種のような問題に対して排他的に作用すること(Fox 2010)、脚本家や俳優を起用しないことによる低コスト化が番組の品質を下げていること(Grazian 2008)などが折に触れて批判されてきた。
 その反面で、リアリティTVの特徴である自己開示や視聴者参加の民主主義的意義を捉える理解も示されてきた。例えば、リアリティTVを、ドキュメンタリーの事実的要素とテレビドラマなどの虚構的要素の異種混淆を経て発展した「ポスト・ドキュメンタリー文化」として分析する必要性が古くから指摘されてきた(e.g. Corner 2002; 丹羽 2003)。等身大の人物が番組の出演者となり、オーディエンスの再帰的な自己形成を促している点について、タブロイド・ジャーナリズムとの共通点も指摘されており(e.g. Hill 2005; Sender 2012)、自己をめぐる問題を公的領域に媒介する可能性にも開かれていると言える。
 ところが、多くの場合、以上の批判的見解と肯定的見解をめぐる議論は枝分かれしたままであり、リアリティTVに政治経済的問題や倫理的問題がある反面で、私事化された問題を政治的領域に繋ぎ止める可能性もあるという両義性については深く議論されていない。特に『ビッグ・ブラザー』など衆人監視の典型例が多く検討されてきた反面、ドキュメンタリーの商業化・娯楽化・大衆化の系譜を踏んで形成された番組が参照されることは少ない。そこで、本研究では、リアリティTVがどのように個人の抱える社会的問題を提示し、連帯の感情を構成しているのかを明らかにし、これをポピュラーなジャーナリズム実践の一部として評価していく。これは、公共性や事実性を自らの存立根拠と見做す既存のジャーナリズムの規範論から離れ、ジャーナリズムがいかに真正性、自分自身にとってリアリティのあるものだという感覚を獲得できるのかを問うものである。

【研究の方法】
 米国のリアリティ番組『クィア・アイ』シーズン1~4と、日本で撮影された特別版『クィア・アイ We’re in Japan!』の番組36本を対象に質的分析を実施した。同番組は2018年からNetflixで配信されるライフスタイル番組(変身番組)であり、ゲイのライフスタイル専門家5人組「ファブ5」がホストとして、視聴者の中から選ばれたゲストの家を訪問し、ゲストを「変身」させることで、彼らの挑戦を後押しするという番組構成となっている。同番組は様々な悩み事を抱えるゲストとの対話を深め、表象することで政治的連帯を企図するリアリティ番組でもあり、事実的要素と虚構的要素の混淆などのリアリティTV的な要素が自己開示をどのように促し、真正なものとして表象しているのかを分析した。

【得られた知見】
 本研究から得られた示唆を要約すると、以下の2点である。第1に、同番組は、自宅や職場などの日常空間にテレビの非日常的演出を持ち込み、出演者の独白を促すことで、連帯を共感可能で真正性の高い物語として構築している。第2に、ホスト自身が積極的に自分自身のトラウマや負の経験を自己開示することで対話の契機を生み出している。すなわち、リアリティTVは、番組制作者が一方的な観察に徹するのではなく、ホストに積極的な介入と対話の役割を持たせることで、相手のリアルな語りを引き出し、人種やセクシュアリティをめぐる問題提起をすることも可能であることが分かった。この点については、私情を挟まずに中立の立場を維持するべきだと考えられてきた一般的な報道規範とは対照的であり、ジャーナリズムの理解の幅を拡げる契機となると考えられる。


個人・共同研究発表2

NHK『中学生日記』制作班と名古屋の教師との関係
――メディア組織とコミュニティの相互作用に着目して

王 令薇 (京都大学大学院 院生)

【キーワード】 中学生日記、NHK地域放送局、名古屋、コミュニティ、教師

【研究の目的】
 『中学生日記』は、前身番組の『中学生次郎』に遡ると50年の歴史を有するNHK名古屋放送局制作の教育番組である。同番組と名古屋市民との緊密な関係は、新聞や雑誌記事の中でしばしば語られるが、こうした関係を考察し、テレビ史において位置づける試みはまだ存在しない。この空白を埋めるために、本報告では、NHK『中学生日記』制作班と地域コミュニティとの相互作用について検討する。
 本報告は、筆者が取り組んできた『中学生日記』の内容分析「オルタナティブな「中学生問題」の構築過程」(『マス・コミュニケーション研究』第99巻)と問題意識が連続している。それは番組と教師との関係への着目である。上記の研究では、『中学生日記』は2002年度まで教師の立場を物語の中に包摂したことを明らかにした。この点を掘り下げることで、制作班とコミュニティとの相互作用のメカニズムにおける学校関係者の役割をさらに明確にしたい。

【先行研究との差異】
 これまでローカルまたは地域放送局の特色のある番組制作実践に関する研究は存在するものの(米倉律等編『ローカルテレビの60年』、早稲田大学メディア文化研究所『メディアの地域貢献』等)、番組制作側とコミュニティとの相互作用についての考察は少ない。さらに、これらの放送局の地域社会に貢献しようとする姿勢は描かれてきたが、放送局側の動きを制御する地域社会の能動性を強調する研究はほとんどない。この仕組みをNHK『中学生日記』の周辺から分析することができる理由は、『中学生日記』は、名古屋という一つの地域で、中学生の教育問題という一貫したテーマを長年にわたり取り上げ続けたからである。

【研究の方法】
 制作の流れの紹介、制作者と俳優が書いた記事と、『中学生日記』にレギュラー出演していた藤田康雄の追悼集などの、番組制作の裏を語る資料を発掘する。また、東海地方を中心とする地域で発行する日刊新聞『中日新聞』に掲載された同番組の関連記事を参照しながら、オーラル・ヒストリーの手法も併用する。7月29日現在までに、2000~2007年、2007~2010年、2009~2012年、2010~2012年に『中学生日記』に関わった4名の制作者に対して聞き取り調査を行った。
 本報告では、institutional theoryという、Selznickのテネシー川流域開発公社(TVA)に関する古典をはじめとする組織研究でよく使うアプローチに倣う。こうしたアプローチを利用し、放送組織と環境との相互影響を考察するメディア研究としては、エリス・クラウスの『NHK vs.日本政治』がある。だが、地域コミュニティがNHKの一つの教育番組の制作班に与えた影響に関心がある本研究は、国家と政治がNHKの報道局と記者の規範に果たした非公式的な影響というクラウスの着眼点と異なる。

【得られた知見】
 学校関係者の立場を包摂して支持を得たことは、『中学生日記』を立ち上げたNHKの制作班にとっては、「意図せざる結果」だった。この結果は、制作班が劇団から地元の人材を吸収したこと(資源依存)および、ドラマの中で先生役を演じる俳優を通じて地域コミュニティと信頼=制約関係を構築したこと(感情的つながり)によるものである。
 『中学生日記』の前身『中学生次郎』は、NHK拠点放送局発の全中番組として立ち上げられた。全国の一般家庭の関心と共感を集め、中学生とその家庭が持つ悩みを解決するという制作意図があった。制作班は、劇団女優の森孝子、元NHK放送劇団俳優・市立中学校教諭の藤田康雄、脚本家兼名古屋学院高校教諭の熊谷昭吾などの地元出身者を起用した。
 1980年代において『中学生日記』の名古屋地区の視聴率はピークに達した。藤田康雄と森孝子だけではなく、湯浅実、東野英心、岡本富士太といった『中学生日記』で先生役を演じている俳優も、中学生問題に詳しい現実の先生の代表として地域住民の信頼を得た。名古屋市内の様々な学校や企業、NPO団体の講演会に招かれ、彼らはオピニオンリーダーとして、そして番組制作班と名古屋市民の橋渡し役として地域で役割を果たすようになった。こうした信頼は、しかし一方で、番組への制約にもなっていた。ドラマの中での「先生」には先生らしい振る舞いが地域社会から期待され、学校の現実を超えた内容づくりも困難となった。
 2000年に『中学生日記』の終了がNHKで検討された際に、当時名古屋市長の松原武久、愛知県小中学校長会長の内田久幸と、先生役の出演者等を中心に、番組のファンクラブが結成し、編成側に圧力を与えようとしていた。ただし、番組のターゲットが中学生に絞られるようになった2003年度以降、同番組と地域コミュニティとの関係はだんだん薄れてしまい、それが番組の終焉にもつながった。


個人・共同研究発表2

ユーモアの視聴覚翻訳の方法と困難
――アメリカ合衆国のコメディドラマの日本語字幕

岡沢 亮 (明治学院大学)

【キーワード】 ユーモア、翻訳、テレビドラマ、成員カテゴリー

【研究の目的】
 グローバリゼーションの進展に伴い諸外国の様々なメディアや文化が日本に流入しているが、その一つとして映画やドラマなどの映像作品が挙げられる。こうしたメディアや文化のグローバリゼーションを理解するために見落としてはならないのは、翻訳という契機である。特にコメディ映画やドラマの理解にあたって、字幕や吹替といった翻訳は大きな役割を担う。例えばアメリカ合衆国のシットコムにおける人種、民族、セクシュアリティなどに関わるユーモアを理解するためには、英語に加え同国の文化的・社会的事情の知識も必要となる。翻訳は日本の視聴者に対して、それらの知識を補完する役割を果たすのである。
 では、映像作品のユーモアの翻訳をめぐって、翻訳者たちはいかなる困難に直面し、いかなる方法で対処しているのだろうか。本稿は、アメリカ合衆国のコメディドラマの日本語字幕を取り上げ、かつ人種や民族など人々のカテゴリーをめぐるユーモアに着目し、英語から日本語へのユーモアの翻訳の方法と困難を解明することを目指す。

【先行研究との差異】
 近年の翻訳研究において、映像メディアの翻訳、すなわち字幕と吹替を主たる形式とする視聴覚翻訳に注目が集まっている(Diaz-Cintas 2009;Gambier 2013;篠原 2018)。その中で、ユーモアの視聴覚翻訳はいかにして行われるのかという問いが重要になっている(Bucaria 2017;Chiaro 2010a)。いわゆる「ダジャレ」からより複雑な会話によるユーモアに至るまで、様々なユーモアは各言語の特性や各国の文化的・社会的事情に依拠しており、それらについて一定の理解がなければ当のユーモアを理解することはできない(Chiaro 2008)。翻訳者は、それらの知識を必ずしも持たない想定視聴者に向けて、どのようにユーモアを伝えるかという困難に直面し対処を図るのである。
 ユーモアの視聴覚翻訳の研究はまだ発展途上であり、経験的研究の蓄積が望まれる。特に英語から他の欧米系の言語ではなく、日本語へのユーモアの視聴覚翻訳がどのように行われているのか、すなわちその方法と困難についての研究はまだほとんど行われておらず、本研究はその空白を埋める。

【研究の方法】
 取り上げる作品は『モダンファミリー Modern Family』という2009年から2020年まで放映されたアメリカ合衆国の人気コメディドラマであり、本稿はその日本語字幕に関してNetflix.comのバージョン(2021年6月8日時点)を利用する。
 具体的な分析対象となるデータに関しては、まず全11シーズン250エピソードのオリジナル英語版をもとに、ユーモアが人々のカテゴリーをめぐって産出されていると理解できる相互行為を84ケース収集した。英語音声と日本語字幕の分析にあたっては、篠原(2018)やChiaro(2010b)による翻訳方略の分類を参考にしつつ、人々のカテゴリーをめぐるユーモアの翻訳に関して、どのような方法と困難が見られるのかを個別に検討した。

【得られた知見】
 第1に、翻訳者は、英語音声では明示されていないカテゴリータームを日本語字幕で明示することで、直訳ではアメリカ合衆国における人種的・民族的ステレオタイプに必ずしも馴染み深くない日本の想定視聴者にユーモアが伝わらないという困難に対処していた。第2に、それとは対照的に、英語音声におけるカテゴリータームや発話が複数の意味を有する場合、翻訳は困難になる。なぜなら当の複数の理解可能性自体が、英語やアメリカ合衆国の文化的・社会的事情に依拠しているからだ。こうした困難に際し、翻訳者は当該発話自体の複数の理解可能性を維持しようとしつつも、当該のカテゴリータームは翻訳せず省略する方法をとっていた。また同様の困難に際しては、第3に、字幕メディアの特性をいかし、カテゴリータームにルビを振ることで、複数の意味を画面上に同時に表示する方法も用いられていた。
 また分析事例の中では、英語のカテゴリータームが持つ意味の複数性がもたらすユーモアの複雑性が、日本語字幕では失われ単純化しているケースがあった。このことは、グローバリゼーションの中で日本の視聴者がアメリカ合衆国の視聴者と「同じ」メディアや作品を受容していても、必ずしも「同じ」ユーモアを受容しているとは言い難いことを示唆する。
 本研究がもう一つ示唆するのは、視聴覚翻訳の困難と方法への焦点化が、メディアや文化のグローバリゼーションを研究する有望な道筋であることだ。海外のメディアや文化作品の生産者・配給者と日本の受容者との間を媒介する視聴覚翻訳という契機に着目することで、メディアや文化のグローバリゼーションの基盤を解明できるのである。


個人・共同研究発表3

「テレビまんが」から「アニメ」へ
――1960~70年代に変容するメディア空間

北波 英幸 (関西大学大学院 院生)

【キーワード】 アニメ、テレビまんが、コマーシャル、テレビ史、メディアミックス

【研究の目的】
 アニメーション技法を活用したテレビ番組コンテンツは、なぜ、どのように「アニメ」と呼ばれるに至ったのか、それが指し示すものはどのようなメディアか、その諸相を明らかにする。

【先行研究との差異】
 テレビアニメーション番組『鉄腕アトム』(1963)は日本国内における「アニメ」の嚆矢として語られてきた。人気マンガを原作とする週一回30分のレギュラー放送と、それを支えるプロダクション・システム、キャラクターを核とした商品展開などは、概して『アトム』以後だと語られる。たとえばスタインバーグ(2015)『なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか』に顕著な視座である。また津堅信之(2017)『新版 アニメーション学入門』をはじめ入門書・教科書でもそのように記述されることが多い。
 一方で、アニメーションによるコンテンツ自体はテレビ放送開始直後からあった。旧作「漫画映画」やCMアニメーションである。ことにCMには後のテレビシリーズ制作会社が関わっているが、最大公約数としての「アニメ史」に組み込まれない。本発表はより俯瞰的な視座から、黎明期のテレビアニメーションCMと、「テレビまんが」と呼ばれる番組との接合の可能性を論ずる。さらに「テレビまんが」はどのように「アニメ」と呼ばれるに至ったのかも検討し、より立体的な「アニメ生成史」の構築を目指す。

【研究の方法】
 新聞全国紙および、「アニメ」概念変化に関連するとみられる時期の雑誌・書籍言説も参照する。可能な限りコンテンツ自体も鑑賞する。対象期間は1950年代から、「アニメ」という呼称が社会にある程度定着したとみられる1970年代後期までとする。また3つのレイヤーを設けて分析する。第一に制作物の内容そのものである"contents"、次にデバイスとそれを取り巻く鑑賞空間である"careers"、最後に同時代の社会の実相及び現代から見た歴史的位置付けの文脈"contexts"である。

【得られた知見】
 「アニメ」は「『アニメーション』の略語」から、1977~8年における『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開とそのブーム期を一つの契機として、大きくその概念を変える。アニメーションや特撮、実写テレビ映画の入り混じった「テレビまんが」から分化し、ファンの鑑賞行動のみならず経済活動の実践が、「市場」として送り手からも見出されたことで生まれた。「テレビまんが」は大きく分けて2つの機能を持つメディアである。一つは、キャラクターを核とした毎週1回30分の物語を継続するコンテンツ伝達に基づく、制作者(送り手)から視聴者(受け手)へのコミュニケーションである。もう一つは、番組に対して受け手が抱く親密性に依拠し、音盤や印刷物や雑貨などの販売を企図した広告的コミュニケーションである。この先駆的実践は第二次大戦以前の『のらくろ』などから、戦後の不二家「ペコちゃん」や資生堂「パールちゃん」、あるいは森永製菓のディズニーキャラクターなど、主に菓子・化粧品メーカーらによるキャラクターを活用した企業広報活動に見られる。
 1963年、広告代理店の萬年社と明治製菓はフジテレビで『鉄腕アトム』のテレビアニメーション化("contents")を果たした。これだけでは単一事例にとどまった可能性もあったが、同年にTCJ・電通・グリコの『鉄人28号』や、東映動画・森永の『狼少年ケン』が続く。いずれも送り手が企図した通りかそれ以上の経済的効果をもたらす。引き続き「テレビまんが」のビジネスモデル("contexts")は、21世紀にも続く。
 ただし「アニメ」生成には"careers"の変化にも注目する必要がある。「テレビまんが」の受け手像は「児童一般」や「男の子/女の子」など、送り手の期待する定義によっていた。ところが幼かった視聴者(消費者)たちは、1970年代中~後期には高校生や大学生に達する。ここで「テレビまんが」『宇宙戦艦ヤマト』劇場映画化に際し、製作プロデューサー(送り手)は熱烈なファン(受け手)に直接、宣伝協力を持ちかける。ファンはそれに応えてテレビ局への再放送懇願署名、ラジオへの楽曲リクエスト、新聞への感想投稿をするのみならず、レコードや出版物を買い自ら実際に経済の動く「市場のありか」の存在を示した。
 つまりメディア企業からの一方向コミュニケーションから、送り手と受け手が双方向でフィードバックしながらブームを構成する"careers"の転換があった。この際、テレビシリーズの継続視聴による親密性醸成とともに、テレビ以前のオールドメディアである音盤やラジオまでもが、フィードバック実践のメディアとして機能した。ファンは受動的に享受してきた「テレビまんが」から、自らの新たなコミュニケーションメディアの呼称として「アニメ」を選び取ったのである。


個人・共同研究発表3

ネット上の“炎上”参加者の特徴について
――動画視聴を契機にしたコミュニケーションから考察する

吉武 希 (上智大学大学院 院生)

【キーワード】 コミュニケーション論、インターネット、メディア・リテラシー、炎上、動画

【研究の目的】
 インターネットが進化しソーシャルメディアが普及したことで、宣伝が目的などでタレント自身が利用を始めるケースも増えた。その結果、これまでは放送番組に出演していたタレント等と直接コミュニケーションをとる機会は稀であったが、視聴者がタレントに発信することが可能になり、新しいコミュニケーションの場が生まれた。
 インターネットのない時代は、テレビ番組の視聴における感想は、家族や学校や近所の人等といったリアルの行動範囲に限られた共有であった。しかし、現在では、インターネット上でリアルの行動範囲の制限なく、気軽にテレビで放送された番組の動画について感想を述べたり、コミュニケーションをとっていると考えられる。
 では、なぜテレビ番組に出演した芸能人に対して誹謗中傷を行う等の問題が起きるのだろうか。以上の問題意識からインターネット上でコミュニケーションをとる人々のテレビ番組(動画)視聴態度等の特徴について調査を行った。

【先行研究との差異】
 吉野ヒロ子(2019)の調査からは、炎上投稿経験者は、「サイバーカスケードモデル」と、「社会的制裁モデルのモデル」が存在し、また炎上したものに対してさらに投稿し、燃え広がすような行動をする人の特徴を、「祭り」型動機と「制裁」型動機があるとした。そして、『サイバーカスケードモデルは「祭り」型動機が強い者、社会的制裁モデルは「制裁」型動機が強い者に当てはまっていると言える。』とした。
 本研究では、先行研究を参考に性年代別及び職業別にインターネット調査を実施し、各モデルの人々がどのようなテレビ番組やインターネット上の動画を好んで視聴しているのか等の調査、研究を行った。当該調査については、筆者が「公益信託高橋信三記念放送文化振興基金」からの助成で調査を実施したものである。

【研究の方法】
 10代から70代の年齢・性別・職業別各45名を調査した「ネット・SNSとの関わり方に関する調査」と各種調査や文献調査を基に論じていく。

【得られた知見】
 今回の調査では、「職業別」での「炎上参加リスク者」や「サイバーカスケードモデル」、「社会的制裁モデル」のいずれにおいても、それほど差異が生じる職業は見受けられなかった。しかし、「サイバーカスケードモデル」では、10代から30代の男性にその特徴が見受けられ、特に「無職」の20代男性が最も高いリスクを持っていることが分かった。また、「社会的制裁モデル」特徴をもつ人は、政治や経済等のニュース系の動画をよく視聴し、「サイバーカスケードモデル」特徴をもつ人は、エンターテインメント系の動画をよく視聴していることが分かった。ただし、各モデルの特徴をもつ人が、動画について感想などの情報発信をしているわけではないという結果となった。今後は、職業別に加えて性年代別に細かく調査分析及び、「社会的制裁モデル」や「サイバーカスケードモデル」だけではなく、「炎上参加リスク」や「攻撃性尺度」等、さらに分析を行っていく必要があると考える。
 一方で、今回の調査では、「社会的制裁モデル」特徴のある人が、政治や経済等のニュース系の動画をよく視聴することから、インターネット上で炎上した情報が、テレビ番組に取り上げられることによって、その感想などをインターネット上で呟くため、再び燃え上がることになるのではないか。「正義感型」の炎上参加者は、社会に害をなすような人に対して見つけ出して、さらに攻撃を行うようになる。加害者がインターネット上で個人情報を晒され、例えば住所を特定されることになると、身の危険を感じるようになる。こういった状況になる可能性を、放送局などのマスコミは考慮して、番組を制作する必要があるといえるだろう。マスメディアによるインターネット上で起きた出来事についての報道の在り方が問われているといえる。
 また、ドラマやバラエティー番組等の出演者の発言や容姿等についての感想を、話すだけではなく、書き込むことでその情報が可視化されるため、書かれた本人が見てしまうことによって精神的な苦痛となるのではないか。視聴者と出演者等は、これまでのようなコミュニケーションをとっているわけではない。「サイバーカスケードモデル」の特徴を持つ人が、エンターテインメント系の動画をよく視聴することから、インターネット上で「祭り」型動機の炎上参加者の「標的」になりやすい、ということを念頭に置いて、番組制作をすることが必要だろう。


個人・共同研究発表3

なぜ彼女たちは「ママファン」と名乗るのか
――現代中国社会における育成系アイドルの未婚女性ファンのジェンダー戦略

魏 珂楠 (関西学院大学大学院 院生)

【キーワード】 育成系アイドル、ファンダム、ジェンダー

【研究の目的】
 中国の「未婚ママファン」を対象に、男性育成系アイドルグループに対し、未婚の女性ファンが自ら「ママ」を名乗る行為を考察することを通じて、メディア環境の変容によるオーディエンスの能動性や、「未婚ママファン」ブームの背景にある中国社会におけるジェンダー意識の変化などを明らかにする。

【先行研究との差異】
 John Fiske (1989=1998)は、「記号論的な力」の立場から女性がテクストを解読する過程で得られる快楽を、支配イデオロギーに対する抵抗の結果として解釈した。インターネットの登場による「生産者即消費者」の「プロデュセイジ Produsage」時代において、ファンたちは「能動的オーディエンス」として、SNSを活用してメディア支配の構造への抵抗を実践している。朱・韓(2017)は、育成系アイドルのビジネスモデルにより、女性ファンたちはアイドルとの間に上下関係に基づいた偶像崇拝のみならず、長時間のアイドル育成に基づいたアイドルをコントロールできる、より主体的かつ新たな親密関係が形成されたと論じる。この研究は、女性ファンがアイドルとの間に擬似母子関係築くことを通じて、主体性を獲得しようとした点を明らかにした。
 一方、Jason Karlin(2012:79−83)は、母目線でジャニーズのタレントを育成する既婚女性ファン「バーチャルおかん」に対して、英国の精神分析医ウィニコットの「Primary maternal preoccupation」概念を用いて解読した。女性ファンはmotherly gazeを通じて、母親が乳児とコミュニケーションを取るように、男性アイドルの笑顔、身振り、表情に深い意味を読み取ることで男性アイドルと脱性的かつ親密な関係を構築することを指摘するが、心理学の理論を用いた本質主義的な立場からの分析という点で限界を有している。
 以上の研究いずれも、女性ファンはメディア・コンテンツに対して能動的に解釈・創出する実践を指摘したが、なぜ未婚の女性ファンが擬似的な母子関係を選択したかの理由についてまでは述べられていない。本報告では、家父長制の下で抑圧された中国の未婚女性は、「ママ」を名乗りながら、ファンの実践を通じて自己実現を行う能動性と戦略について、社会学の視点から検討していく。

【研究の方法】
 本研究では、北京時代峰峻文化事務所所属の育成系アイドルTFBOYSの15名の未婚ママファンを対象に実施した半構造化インタビューによる質的調査(調査期間:2020年1月〜5月、スノーボール・サンプリング)と、Weibo(中国版Twitter)をはじめとするネット上ファン・コミュニティの参与観察(調査期間:2019年7月〜2021年3月)を行った。聞き取り調査について、具体的には未婚女性がママファンになった理由と、どのように「ママの愛情」を注ぐのか、という二つの方面をめぐって考察する。

【得られた知見】
 本研究では、中国社会におけるSNSを介した未婚ママファン・ブームに着目し、未婚女性ファンが自ら「ママ」と名乗っている行為は、ある意味、家父長制による女性に強いられてきた役割を果たしながら、自己実現を行う戦略実践とみなすことを確認した。
 家父長制に基づいた「男は外で仕事、女は家で家事育児」という性別役割分業により、表出的な役割を担う母親は、家族成員間の連帯関係を維持し、子どもの育成については主導的な責任を負っている。特に中国の伝統的な家族制度のもとで、母親にとって、子どもが誇示的資産としての価値を持ち、感情を託せる存在であり、自己犠牲をしても子どもを立派な人材に育成すれば、自分の人生が円満になるという考え方は女性の日常生活と行為規範に浸透している。つまり、中国の女性が自己を隠し、自分の成功を子どもの成功に寄せ、子どもの成功を通じて自己実現を達成するという考え方は深く根付いている。
 一方、文化消費領域において、女性ファン集団は時に性差別的に蔑視される場合がある。したがって、女性ファンが自らママを名乗り、ママというsafe positionを借りる行為は、家父長制に基づいた不平等なメディア環境に対して正面衝突できない場合の柔軟な対応・戦略といえるだろう。未婚女性ファンたちは、母親が子どもの生活のあらゆる面での監督役として、子どもを評価し、不足が見つかれば叱咤激励もする中で絶対的な支配力を持つ母親像をまねることで、「ママ」という立場をとり、アイドルを育成する過程に自己を投影し、母親のような行動様式を実践している。その中で自分が支えている「子ども」の成功を通じて自己実現を達成する快楽と満足感により、これまでの女性ファンに対する蔑視に能動的に抵抗し、社会と他者の承認を得られると考えている。これは家父長制の権力構造への隷属を条件とした、女性ファンの戦略的な選択といえるだろう。


個人・共同研究発表4

メディア従事者のアイデンティティーを形成する倫理に関する研究
――メディアの現場における決断を促す「世俗の倫理」観

アルン プラカシュ デソーザ (清泉女子大学)

【キーワード】 ジャーナリストのアイデンティティー、メディア倫理、世俗の倫理

【研究の目的】
1) 先行研究において言及されたメディアの組織がメディアに従事する人の倫理観に影響を与えることを検証する。
2) 報道・教育現場の声から、報道従事者の「ジャーナリストのアイデンティティー」として成立している指針を考察する。コヴァッチの「誠実の文化」から成り立つジャーナリストのアイデンティティーを育てるために何が必要か、ジャーナリストらを対象としたインタビューの回答を考察し、「公共への奉仕」への影響を確認する。
3) メディア倫理の意識についてアジア6か国を対象とした意識調査で、倫理と宗教、政治とメディア倫理の関係性を分析する。
4) メディア現場において、組織倫理と個人倫理、企業倫理と職業倫理との間のジレンマが生じる際に必要な倫理観として真理により平和を促進するための「世俗の倫理」を検討する。

【先行研究との差異】
1) 西洋社会に深く影響を与えたキリスト教が根本的に欧米の一般的な規範倫理の形成にも影響を与え、倫理観が職業倫理(プロフェッショナリズム)にも関係すると理解できる。その背後にある社会的な組織はメディアの思想、報道する内容(コンテンツ)、視聴者に発信する情報(インフォメーション)に関係する。そのために、世界の地域別のメディア組織のあり方と社会におけるメディアの倫理判断に与える影響をアジア各国の調査などにより考察する。
2) メディア倫理の実践を中心に、メディア倫理の原点やメディアの社会的な責任に触れ、社会的責任理論の考察と倫理実践の現状を踏まえ、メディア倫理の原点を明確にするためにメディアの社会的な責任を再考察する。孔子が「調和」と呼んだものやアリストテレスの幸福(eudaemonia)の達成を取り上げつつ、美徳倫理は道徳哲学の深遠な考えであり、今日でも関心の高いテーマであり、これらの要素が、人間の全ての判断に影響を与え、人は倫理的な決断をする指針となるが、個人は、日常生活においてバイアスを持つため、その判断の道徳性や適応性が問われる。この点をメディア倫理に焦点を当てて考察する。

【研究の方法】
 研究の手法としては、「関係文献・論文の整理」の中では倫理的な判断に関する分析は重要なポイントとする。「アジア各国への意識調査」でメディア倫理に関する認識について異なった宗教を信仰するアジア6ヵ国を対象にアンケート調査を実施し分析。「個人インタビュー」としてメディアの「倫理」とジャーナリストの「アイデンティティー」に関して考察し、全体を総括しながら分析・検討する。これらの知見に基づいて日本の現場に適応する倫理判断の方法論を検討する。

【得られた知見】
1) 異なる宗教背景を持つアジア諸国への調査の結果、メディア周辺の倫理観は多少の違いはあっても、大きな枠組みでは似た状況であり、倫理観に影響を与えているのは宗教ではなく可変的な政治であることはほぼ共通であり、それは世俗的な政治とメディア活動が強く影響しあっていることを確認した格好となった。
2) メディア環境の激変と国家リーダーの特徴により、メディアという「公共の場」も世界的な変化をもたらしている。西洋型倫理学が神と人との関係の構図を基礎フォーマットにしている考えへの対抗として和辻哲郎は「人と人との間柄」が日本式の倫理「人倫」であると説いたが、西洋型のフォーマットではとらえきれないアジア各国のメディア倫理の差異も透けて見えることが調査から考察された。
3) 誰もが必要な権利を行使できる市民社会におけるメディア行為に、高い倫理観を維持していくには、いかなる宗教背景であれ、政治が影響している以上は世俗化された倫理をひとつの基準とするのが現実的な対応であり、その一つとして「世俗の倫理 secular ethics」も検討する余地があると考えられた。
4) 西洋社会においてキリスト教を含む組織化された信仰・宗教は深く影響しているが、組織宗教の色が薄い日本においてもキリスト教の影響から欧米ジャーナリズムが強調してきた正義、尊厳、倫理、そして真理の原理は重要視されている。メディアの諸活動は、情報伝達を通して、社会におけるメディアの技術の進歩や情報交換は、「共通善」(common good)へ大きな力になり、社会に欠かせない「真」と「信」を保護する役割を果たすという認識も日本のメディア現場にあると指摘された。
5) 各国のメディアに従事する人は、組織倫理と個人倫理、企業倫理と職業倫理との間に矛盾を感じ、現場における判断が求められる場合、戸惑うことがあるが、メディア倫理は責任と密接に関係し、社会への責任の意識から共通善への奉仕が可能になる。現代社会において、組織倫理と個人倫理、企業倫理と職業倫理との間のジレンマを緩和させ、そのギャップをつなげてくれる相互補完的なツールの提供が課題であり、ダライ・ラマ14世の「世俗の倫理 secular ethics」がその鍵になる。


個人・共同研究発表4

ポピュリズム対策としてのPOFMA
――シンガポールの基本的イデオロギーとメディアに求められる役割の考察

井原 伸浩 (名古屋大学情報学研究科附属グローバルメディア研究センター)

【キーワード】 POFMA、ポピュリズム、イデオロギー、ゲートキーパー

【研究の目的】
 本報告は、シンガポールのフェイクニュース対策法であるオンライン虚偽情報および情報操作防止法(Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act: POFMA)の成立および履行過程を、特に与党人民行動党(People’s Action Party: PAP)の閣僚・政治家が、同法をいかに正当化する政治コミュニケーションを図ったかとの観点から分析する。特に本報告では、POFMAをポピュリズム対策とする言説を取り上げる。これにより、POFMAの成立を、2016年頃から特に顕著となっていた国際的ポピュリズム批判に位置づけるとともに、POFMAを単なるメディア政策としてではなく、政治学的・社会学的に評価する一助としたい。

【先行研究との差異】
 POFMA研究の多くは,同法の法的評価を検討する報告書やコメンタリーが多い。例外として、フェイクニュースがシンガポールにおいて安全保障問題化した経緯を検討したり、POFMAを含む4 つのメディア法を取り上げながら、それらによってシンガポール政府が統治の正当性を確立しようとしていることを指摘する研究があるが、これらはPOFMA の成立過程を正面からとりあげたものではなく、その反ポピュリスト的性格を検討するものではない。また、本研究と趣旨を同じくするものとして、ポピュリズムおよびポピュリストによるメディア利用の理論を説明枠組みとして提示しつつ、POFMAをポピュリズム対策ととらえる研究もある。ただし、なぜシンガポールにおいて、そうしたポピュリズム対策が必要とみなされたかという同国のイデオロギー的背景は明確でないうえ、POFMAの成立過程で、いかにしてそうしたポピュリズム対策の必要性が議論され、正当化されたかの分析もなされていない。本報告は、そうした研究上の空白を埋めるものであり、PAPやシンガポール政府が、その基本的イデオロギーと照らしてメディアにいかなる反ポピュリズム的役割を期待しているのか、また、そうした期待がいかにしてPOFMAを正当化する議論に反映されたのかを明らかにする。

【研究の方法】
 本報告の説明枠組みとして、第一に、ポピュリズムの基本的特徴を概観し、第二に、ポピュリストによるメディア利用、あるいはメディア自体によるポピュリスト的報道に関する諸理論をまとめる。ポピュリストは伝統的メディアを積極的に利用することもあれば、ゲートキーパーたる伝統メディアを迂回して直接人民へメッセージを伝えるべく、ソーシャルメディア等を用いることもある。また、メディア自体が、そうしたポピュリズム的言説拡散の主体となることもある。これに関する理論をまとめ、ポピュリズム対策の観点において、メディアにいかなる役割が期待されるかを論じる。第三に、シンガポールの基本的イデオロギーを概観する。すなわち、「脆弱性」「多文化主義」「実力主義」といった同国のイデオロギーを挙げつつ、これらがポピュリズムと相いれない性格を有することを指摘する。これらを説明枠組みとしながら、POFMAの成立過程や、成立後の履行状況を検討していく。

【得られた知見】
 本研究で得られた知見は、第一に、ポピュリズムは、時として弱者を「救済」することもあり、ポジティブな評価がなされることもあるが、シンガポール政府は、その排外主義的主張や反エリート主義ゆえに厳しく批判している。これは、多文化主義や実力主義を重んじ、マレー系大国に囲まれた中華系住民の小国であるがゆえの脆弱性を有するというシンガポールの基本的イデオロギーに反することが背景にある。特に、虚偽情報をもってエリートの「腐敗」を糾弾する動きに対して、シンガポール政府はPOFMA の成立過程や成立後で一貫して厳しい姿勢を取り続けた。第二に、Facebookをはじめとするデジタル・プラットフォームが、ポピュリズムの伸長を防ぐゲートキーパーとしての役割を十分に果たしていないことが、POFMA成立過程で一つの論点となった。第三に、そうした新しいメディアへの批判がある一方で、ポピュリスト的な言説を拡散したり、それゆえポピュリストが積極的に利用しようとする伝統メディアの存在も、POFMAの成立過程でPAP 政権の閣僚らによってたびたび指摘・批判された。これを通じて伝統メディアに期待される役割を明示しつつ、第四に、伝統メディアの担う質の高いジャーナリズムと、それに対する信頼性の維持が、ポピュリズムの拡大を防ぐ一つの処方箋だとシンガポール政府は繰り返し強調した。POFMAは、虚偽情報の発信者やデジタル・プラットフォーム企業に対する規制を主眼としながらも、その前提として、シンガポールにおいてメディアが求められる役割を、政府が明示するものだったのである。


個人・共同研究発表4

第7次「郡上村」調査におけるメディア利用と生活圏

川又 実(四国学院大学)
山中 雅大(四国学院大学)
齋藤 聖一(NPO地域メディア研究所)

【キーワード】 郡上村、電気通信メディア、農村調査、生活圏、テレコミュニケーション

【研究の目的】
 IT化、モバイル化に伴い、農山村部の生活スタイルや、高齢者、主婦家庭生活における受け止められ方や意識、生活の変化についての継続的な調査は稀有である。そこで、農山村社会、生活の変化を検討するにあたり、岐阜県下の小さな山村「郡上村」を対象として、1970年代より調査を開始した。1970年代の無電話時代から個人にスマートフォンが普及した2019年まで、およそ50年間、計7回の追跡調査を実施してきた。数量、質的調査結果では、様々な点で変化がみられたが、今回の共同研究発表では、ICTを中心としたメディア利用と生活圏について報告をする。

【先行研究との差異】
 1973年、電話がまだ開通していない郡上村にて、第1次調査を実施した。続いて、第2次(1974年)、第3次(1993年)、第4次(2001年)、第5次(2009年)、第6次(2010年)と、ほぼ10年おきに同村を対象にフィールドワークを実施し、電気通信状況の変化、生活スタイルに及ぼす影響や、人間関係を社会学的に検証してきた。特に、第5次調査では、インターネットや携帯電話が村の生活に少なからず影響を及ぼしていること、さらに第6次調査では、ライフヒストリーと通信メディアの関連から、電気通信メディアが農村にもたらした歴史的背景についてインタビューなどの調査を実施した。そこで今回は、第5次・第6次調査で得られた知見をベースにして、「郡上村」におけるメディア普及・利用状況の量的調査を、そしてそれにともなう「生活史」を中心とした質的調査を実施し、電気通信メディア、インターネット・サービスが人々のコミュニケーションにどのような影響を及ぼしたかを考察した。

【研究の方法】
 「第7次郡上村」現地調査を、2019年8月19日から24日までの6日間にかけてを実施した。前回調査が実施された2009年から約10年が経過し、地域を取り巻く環境やメディア状況が変化したことや、調査チーム陣容も変化しているため、調査設計を見直した。また現地調査の一年前に、予備調査として郡上市役所において、調査対象者である「郡上村」の調査対象者を確定するため、個人情報閲覧手続きに則り、当該集落の選挙人名簿を確認し、全調査対象を抽出した。これまでの調査では、調査対象を一家の「主婦」としていたため、継続性の確保のため今回の調査おいても、「主婦」を主対象とした。
 調査質問票を事前に郵送し、アポイントをとった上で、個別訪問し、アンケート回収及び聞き取り調査を実施した。調査対象とした66名中、63名から調査票を回収し(回収率約95%)、43世帯に聞き取りを行うことができた。集められた調査票に関しては、後日集計作業を行い、データに関してはメンバー全員で確認し、分析を行った。

【得られた知見】
 前回の2009年調査以降、「モバイル端末全体」や「スマートフォン」「タブレット型端末」の保有率が増加するとともに、「固定電話」や「パソコン」「FAX」といったそれまでのコミュニケーションツールや、「家庭用ゲーム機」「携帯型音楽プレイヤー」といった娯楽ツールが減少傾向にある。また、前調査では村内の連絡手段の85.2%を占めていた「ご家庭の電話機」が、41.7%に減少し、「携帯電話」が23.0%から63.3%へと主流化していることがわかった。
 一方で、現代の農山村が全国的な過疎化や少子化・高齢化への課題と解決策を模索する中で、生産機能よりも生活機能の優越度、および隣接される都市との利便性や交流に関心が注がれている。そこで、郡上村のメディア利用の変遷を主軸とし、その消費、生活形態、コミュニケーション能力に着目し、「生活圏」との関りについて考察した。ここで「生活圏」とは、日常生活における活動圏域としての「祭祀圏」「通婚圏」「通話圏」「ショッピング圏」「交通圏」「介護・医療圏」の総称のことを指す。郡上村では「生活圏」の拡張・拡大ではなく、むしろ縮小された生活圏、「ローカル生活圏」に向けられている。都市部での通勤・通学、買い物、介護・医療といった宅外への日常生活関連サービスの利便性は、「交通1時間」程度が目安とされている。農山村地域では、豊かな自然、ゆとりのある居住環境に加えて、都市的な生活関連サービスが享受でき、住民が「ヴィレッジプライド」を持って自律的に過ごすことができるかが課題である。
 ICTメディアの発展、普及、活用は、郡上村でも血縁、地縁、あるいは時間、場所、空間に捉われない新しいコミュニティの形成、維持、強化をになっているのではないだろうか。また、郡上村の日常の「ローカル生活圏」は、村の環境、習慣、人間関係を確かに受容し、変容のプロセスを示すものでもあると考えられる。


ポスターセッション

コロナ禍の「ステイホーム」CMが構築するジェンダーイメージ

柳 志旼 (東京大学大学院 院生)

【キーワード】 広告、テレビCM、ステイホーム、主婦像

【調査・研究の目的】
 本研究は2020年春以降、新型コロナウイウルス感染症の拡散防止のため私たちの新しい生活様式になった「ステイホーム」を機に「ホーム(家)」を背景とするCMが増えたことに着目し、それらのCMにジェンダーイメージがどう構築されているのかを明らかにすることが目的である。
 社会を映す「歪んだ鏡」である広告は、当然ながらコロナ禍で変わったさまざまなライフスタイルを反映する。コロナ禍が反映されたCMの特徴は大きく(1)リモートワーク(ワーキングスタイルの変化)、(2)ステイホーム(あらゆる商品・サービスが家で楽しめる)に分けることができる。本研究は、(2)ステイホームに注目し、それに伴いCM が「ホーム(家)」を描く傾向が著しくなったことを踏まえ、そのCMに登場するジェンダーイメージ、とくに女性のイメージを分析する試みである。

【調査・研究の方法・対象】
 分析対象としては主に2021 年6 月に放映されたテレビCM を想定する。日本では2020 年4月7 日に発令された1 回目の緊急事態宣言によって「ステイホーム」や「おうちで過ごそう」などのスローガンが一斉に掲げられた経緯がある。その後も首都圏を中心に「ステイホーム週間」が実施されるなど、「ステイホーム」はコロナ禍の初期段階から新たな生活様式として推奨されたものである。しかし、地上波に制作されているCM の企画・制作過程が1ヶ月から数ヶ月までかかることを考慮すると、ステイホームのみならず、コロナ禍が反映されたCMがテレビで流れるまでは時間がかかったことが推測できる。
 これを踏まえ、本研究では2021年に制作・放映されたCM、より具体的には全国各地で発令された3 回目の緊急事態宣言(4 月25 日〜6 月20 日)の期間中に放映されたCM のなかでも「ホーム(家)」が背景として登場するCM のみを対象とする。さらに、CM がコロナ禍での「ステイホーム」を配慮した表現になっているものに絞る。
 収集したCMのサンプルについてはそこに描かれたジェンダーイメージを分析するために内容分析(量的分析)を行う。その際、ポンサピタックサンティ(2016)の研究を参考にし、主人公のジェンダー / 女性の登場有無 / 女性人物の年齢および職業 / 男性人物の年齢および職業などをコード化する項目として考えている。

【現時点で得られた知見】
 まだ研究計画の構想段階であるため、分析結果から得られた知見を述べることは難しい。現時点では、コロナ禍の広告に関する先行研究が非常に少ないということが明らかになっている。

【今後の課題・展望】
 本研究を通じて昨今を取り巻く社会状況の変化の中で改めて浮き彫りになったジェンダーイメージを明らかにすることができると考えられる。また、「ステイホーム」が女性に多大なふの影響を及ぼす可能性が多くの先行研究から指摘されているなか(倉光・福田 2020、落合・鈴木 2020)、果たしてCMはジェンダーイメージをどう構築しているのかを明らかにすることによって、現実とCMの間での「ズレ」を再確認することが期待できる。一方、本研究が直面している最も重要な課題としては対象となるCM サンプルの収集である。MAX CHANNEL を使ってCM を収集することは可能だが、そのなかでもどのような方法でサンプルとなるCMを選定するかが重要な課題である。


ポスターセッション

テレビジョンの発展と大阪の都市としての変化
――小池清氏への聞き取りから

森 美枝 (同志社大学人文科学研究所)

【キーワード】 1960 年代~70 年代のテレビ番組制作、スポンサーの動き、萬年社研究、東京一極集中

【調査・研究の目的】
 本研究は、日本の民間放送の草創期から放送業界に携わってきた小池清氏(元毎日放送アナウンサー、故人)への聞き取りを紹介すると同時に、テレビジョンの発展と大阪の都市としての変化を考察するものである。本研究の仮説は、現在、日本社会の人口が東京に一極集中している状態と、テレビのメディアとしての発展には強い関連性があるということである。東京と並ぶ二大都市であった大阪の変化を、東京出身でありながら、民間放送のパイオニアの一つ、大阪の新日本放送にアナウンサーとして入社した小池氏への聞き取りから考察する。

【調査・研究の方法・対象】
 小池清氏への聞き取りを紹介することを主題とするが、小池氏が長年に渡って携わった毎日放送の『アップダウンクイズ』というクイズ番組をめぐって、小池氏以外にも、問題を読むアシスタントを務めたアナウンサーや番組の構成者やプロデューサー、ディレクター、解答者として出場する視聴者の選考過程から関わっていた広告代理店の萬年社の担当者、そして、スポンサーであるロート製薬の担当者などへも聞き取りを行っている。この番組に携わった多くの人の声もあわせて紹介することで、より調査内容を明確にしたい。

【現時点で得られた知見】
 1958年7月7日、東京のテレビ局がいまだ黎明期にあるなか、それ以外の地域ではテレビ局がこれから立ち上がろうとするなか、「大阪テレビ」を視聴していた人びとは、富士山頂からの生中継を見ていた。
 テレビジョン草創期、大阪は明らかにメディアの中心地であり、東京を凌駕していたはずである。次第にその勢力を弱めていく大きな原因となったのは、大阪に拠点を置く広告代理店が、電通を中心とする東京の広告代理店に圧倒されていくからである。
 それは、単純に電通の経営的な戦略に理由があるだけではない。第二次世界大戦中の1942年に公布された国家総動員法の企業整備令によって、東京に支店を持っていた萬年社をはじめとする大阪系の広告代理店は、東京支店を合同して「大東広告社」を設立することになり、それぞれの東京支店は業務を休止せざるをえなくなった。萬年社を例にとると、戦後、独占禁止法によって大東広告社との関係が切れ、東京支店を再始動したのが1955年である。すでにテレビの契約件数が10万件を超え、東京では新聞を中心に営業活動していた萬年社にとっては、他社に大きく遅れをとった状態であった。
 大阪の広告代理店は、新聞との繋がりが深い。戦後、テレビに広告媒体としての力を見出した大阪の企業は、次々に宣伝・広告の部署のみを東京に移管させ、時代の変化に対応していく。テレビが新聞を超え、広告媒体として社会に定着したのちは、企業の他の機能も東京へ比重を移していく。それは大阪だけでなく、他の地域についても同様であった。結果的に、テレビの発展が、人口の東京一極集中状態を促したといえるのではないだろうか。
 小池清氏への聞き取りからも、大阪という都市の変化がわかるだろう。

【今後の課題・展望】
 2019年にインターネットの広告費が地上波テレビを超えて媒体別広告費の首位に立ち、テレビの牽引力に一つの区切りがついたといえる。テレビに区切りがついた現在、そして、コロナ禍から密を避けることを人びとが学んだ現在、大阪をはじめとする各地域に、都市としての発展の可能性を追求していきたい。


ポスターセッション

『人民日報』における宣伝報道の変化
――計量テキスト分析による試み

工藤 文 (日本学術振興会)
中山 敬介 (早稲田大学)

【キーワード】 中国、政治宣伝、計量テキスト分析、人民日報

【調査・研究の目的】
 本研究は1950年から2020年の70年にわたる新聞記事を対象に、計量テキスト分析を応用し『人民日報』における報道内容の変化を明らかにすることを目的にする。
 宣伝報道の長期的変化を探ることは中国共産党が人々に対して党をどのようにアピールしようとしているかを探る手掛かりとなる。しかし、先行研究では歴史的な宣伝の特徴を分析した研究を中心に、特定の時代や事例を対象にした分析が行われてきた。他方で、宣伝報道の長期的な変化をとらえる研究は少ない。その理由として挙げられるのが手法の問題である。分析対象が長期間になるほど膨大なデータを扱いながら分析の妥当性とともに再現性、信頼性をいかに担保するかが課題となる。そこで、本研究は計量テキスト分析の手法に着目し、『人民日報』の長期にわたる報道内容の変化を抽出することを試みた。 

【調査・研究の方法・対象】
 分析対象は中国共産党機関紙である『人民日報』である。『人民日報』は党の方針や偉大さを人びとに伝えるためのツールとして重要視されてきた。人民日報データベースで「共産党」のキーワードを用いて、1950年から5年おき15年の合計25724件のデータを得た。重複するデータを除外し24897件が対象となった。計量テキスト分析のなかでも半教師あり学習(Semi-supervised learning)の手法を用いた。半教師あり学習とは、分析者が分析におけるヒントとなるデータを予め与えた上で分析を行う手法である。これによって分析者の判断を含みながらも大量のデータを扱うことができる。本研究では言語分析に特化したRのquantedaパッケージを用いた。はじめに記事を中国国内・海外・その他の地域で分類した。具体的には分析者が作成した地理辞書に基づき、記事に得点を付けることで記事の分類を行った。この結果、中国国内の記事であると分類された15000件前後のデータに限定して分析を行った。次にLSS(潜在的意味分析、Latent Semantic Scaling)を使用し記事に得点を付けた。分析者が研究関心に基づいて複数の単語(種語、Seed words)を設定することで、該当の語に共起する語に得点を付け記事内容を予測する手法である。これらの経緯を経て人民日報における報道内容の変化を導き出した。

【現時点で得られた知見】
 国内のすべての記事に対する分析では、政治指導者を中心とした報道として「毛主席、万々歳、真理、唯物論」などの単語(種語)と、中国共産党の成果を中心とする報道として「成績、取得、進展、成効」を対比させて分析を行った。分析の結果、毛沢東主義的な報道から党の成果を中心とする報道への傾向を示すことができた。すなわち、党が自身の能力を、報道を通じて人々にアピールしていると類推することができる。他方で、経済に関連する記事に限定して分析を行うと、改革開放以降に腐敗と汚職に関する報道に変化する傾向が明らかになった。さらに習近平政権以降にも腐敗・汚職へと報道内容の予測値が高くなることが明らかになった。この結果は、習近平政権になり反腐敗キャンペーンが積極的に行われていることと合致する結果となった。

【今後の課題・展望】
 世界では政治コミュニケーション研究において様々なテキスト(マニフェスト・新聞記事・SNSなど)の利用が進んでいるものの、国内において中国語テキストの利用は十分に進んでいると言えない。本報告で紹介する手法は多言語の比較が可能であり、より研究の可能性を広げることができる。しかし、本報告で用いた手法はまだ新しく国内での報告例は少ない。そのため、結果の妥当性についてはさらなる議論が必要である。本報告において手法を紹介するとともに今後の研究成果の公表に向けて聴衆との議論を行い、今後の研究の発展につなげたい。


ポスターセッション

報道の流言化
――台湾におけるメディア不信(1990年代~2010年代)

林 意仁 (東京大学大学院 研究生)

【キーワード】 報道、流言、メディア信頼度、台湾、オルターナティブメディア

【調査・研究の目的】
 本研究は下記二つの問いに答えようとする:(1)過去20年ほどの国際調査結果によると、台湾の報道機関に対する人々の信頼度は他の東アジア諸国に比べて相対的に低いが、その原因は何か。(2)このニュースメディアへの不信感を、台湾という特殊な歴史的文脈の中で、社会学的観点からどのように解釈すればよいのか。

【調査・研究の方法・対象】
 この論文では、既存の調査データベース(Asian Barometer Survey, World Value Survey, Taiwan Communication Survey)の活用、台湾のオルタナティブ・メディアの歴史に関するアーカイブ研究、大手新聞社やテレビ局のメディア関係者へのインタビューなど、複数の方法を用いている(それぞれが一つの章を構成する)。共通の目的としては、1980年代後半以降台湾におけるニュースメディア環境の変化プロセスを構築することである。

【現時点で得られた知見】
 この論文では、台湾におけるニュースメディアへの不信感は、逆説的な状況に起因していると論じている。一方で、台湾は1980年代後半まで権威主義的な体制をとっており、その間、異議の声は、国有または党傘下の合法的なニュースメディアを通じて発言する余地がほとんどなかったのである。他方、通信技術(コミュニティアンテナ、ケーブルテレビネットワーク、小規模ラジオ局)の参入障壁の低さと、活発な海賊放送に追いつかないCATV政策により、アンダーグラウンド(=非合法)な電子メディアが本格的に発展するのに十分な環境が整っていた。
 その結果、「メインストリームがオルタナティブに簒奪される」と表現できるプロセスが生まれた。まず、台湾では1990年代半ばには、インターネットが日常化する以前から、SNS時代に典型的な一般ユーザーのコメントによる言論環境がすでに形成され、大きく普及していた。また、言語スタイルにおいても、CATVや地下ラジオ局の言葉遣いが方言や日常会話に近く、合法ニュースメディアの標準語的なモノトーンとは異なる。第二に、これらのオルタナティブ・メディアの人気を背景に、1993年に合法化されたこれらのメディアは商業的に大成功を収め、やがて元々の公式・合法ニュースメディアを凌駕するようになった。それと同時に、台湾のプロフェッショナル・ジャーナリズムは、まず権威主義的な体制に支配され、次に市場の論理に左右されたため、これらの外部の力から相対的な自律性を育む機会がなかった。その結果、現在台湾で見られるオンライン・ジャーナリズムの実践は、初期のオルタナティブ・メディアが実践していたものから大きく逸脱していない。つまり、台湾のニュースメディア環境は、ゲリラ的なオルタナティブ・メディアによって広く占められており、SNSやオンライン・プラットフォームがもたらす、後に近隣諸国のプロフェッショナル・ジャーナリズムが直面する挑戦よりも早く起こったのである。

【今後の課題・展望】
 前述の台湾におけるメディア不信やニュースメディア環境の変化を解釈するために、本研究は清水幾太郎の「流言」の概念を援用する。この概念は、もともとジャーナリズムと災害研究の両方の議論に関連していたが、近年ではジャーナリズムとの関係が見落とされているようだ。そこで、台湾の事例を紹介することにより、ジャーナリズムと流言の理論関連を再構築し、台湾のニュースメディア環境で起きていることは、「報道の流言化」とみなすことができるのではないかと論じていきたい。


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