不一致の認識によって発生する笑いに関する考察-米中シットコム比較分析
吉松 孝 (九州大学大学院 院生)
【キーワード】シットコム、不一致理論、笑い
【研究の目的】
筆者は、シットコムの分析で、優越理論、エネルギー理論、不一致理論、関連性理論を融合することで、笑い創出の手法を広範なアプローチから解析することが可能とした。その中の一つが不一致理論で、一般的に想定され得る状況とは一致しない状況が生まれ、それを認知した時に、笑いが生まれるというものである。米中シットコムの「笑い」の差異に、不一致理論がどのように適用できるかを明らかにすることを目的とする。
【先行研究との差異】
先行研究①(高木、2017)では、1950年代の手錠ギャグなどに関して、ギャグの諸機能を見出すことで、ギャグが作品構成の中にも組み込まれ、ストーリーを牽引する能動的役割を果たしていることを明らかにしたが、コメディを形作る動作や社会的背景に焦点を当てて分析しており、言葉の組み合わせによる笑いに関しては言及していない。先行研究②(中村、2018)では、笑いを認知する脳の仕組みについて分析しているが、コメディ番組に於ける笑いの仕組みについては言及していない。先行研究③(茄、2016)では、米中のコメディを比較し、「米国では登場人物の心理面、中国では外見の表示に重きがおかれている」といった差異を指摘したうえで、中国では米国の形式をモデルにし、シットコムが作られるようになったとしたが、実際の表現にどのような差異が発生するのかは言及していない。先行研究④(Grandio & Diego、2010)では、「Friends」 (NBC, 1994-2004)におけるスペインのシットコム番組に与えた影響を研究したが、米中間のシットコム比較には言及した研究はない。本研究において、米国・中国のシットコムを分析対象とし、テキストから笑いの生成要因に関しての共通性や差異を考察することに意義を見出せる。日本人である筆者が当研究を行うことは、日本語という他の言語に置き換えることで客観的に比較しやすい、中立な立場を保持できるといった利点がある。
【研究の方法】
笑いに関する先行研究、笑いを構築する理論を参照しながら大分類を、小分類を規定する。番組のスクリプト(英語、中国語、日本語)を作成し、「笑い」(ラフ・トラック)が起きている各箇所をタイムコードとともに記録する。それぞれの笑いが、どの小分類に当てはまるかを当てはめる。一つの笑いに対し、複数の要因が重複していると考えられる場合は、関与が強いと考えられる要因に組み入れる。上記の番組について、笑いの数のデータ分析とテキスト分析を行う。テキスト分析では、米国、中国の番組から、「不一致」を要因とし発生したと考えられる複数のシーンを取り上げ、米中の作品で比較を行った。
【得られた知見】
データ分析からは、大分類の共通性として、「不一致」の要因は、両国とも多く2割弱を占め、小分類でも「妙なこだわり」が2.9%、「ミス/ミスを認める」が、米国3.0%、中国2.5%と高い割合を見出せた。視聴者が想定する方向性と、違うような驚くべき展開を提示することで、笑いを生む安定的な手法であると言える。米国では「空気の読めなさ」、「無垢で悪意のない異常性」、「ミス/ミスを認める」が中国に比べ高い割合を占め、特異な人格を持つキャラクターを設定することで笑いを生みやすい環境を作っていると考えられる。「音声的要因」も、高くはない割合であるが、両国ともに使用されている。小分類で、中国番組が、「同音異義語、似た音で間違い」の割合が高いのは、同音異義語が多いという中国語の言語的特性をもとに発生し、中国の番組の特徴でもある画面下部に字幕が出るという業界の特性によって理解を可能にしている。「フレーミングの変化」は、設定を切り替えることで、設定をリセットする意味合いを持つ。この要因が、「決めごと、決めごとに対する想定外」、「唐突な話題、発言、転換」、「立場の逆転、変化」で中国の方に高い割合を示しているのは、設定をリセットし、視聴者の理解をしやすい状態にすることにより、中国語が持つ表意文字としての言語的特性による口語理解の不容易さや、ハイコンテクストが原因の理解の難解さを克服しようという動きだと考えられる。
テキスト分析からは、不一致の米中の共通点として、全く関係のない話をする、本筋とは外れた内容の話をするといった要因が考察できた。米国では、文末のトーンを高くし疑問形にする、話の筋道を崩し、話題とは全く違う話を差し込むことで笑いを取るといった傾向がある。いずれも発話で完結し、笑いのタイミングを作っている。中国では、バスの座席の座る位置、チャンネルの取り合い、話の途中で悪口を言っている対象を見つけ話題を急に変えるなど、行動を伴ったり、設定上の笑いの傾向が強い。言葉の応酬で笑いを取るより、設定を動かすことで笑いを作る傾向が見られることが分かった。
「クチコミ情報」を収集・提示する情報様式の成立──1980年代から1990年代における、「クチコミ情報」の提示と「クチコミ」に注目する言説に着目して
宮﨑 悠二(東京大学大学院 院生)
【キーワード】クチコミ、マーケティング、雑誌、ムック
【研究の目的】
本研究の目的は、消費行動の参考にされる「クチコミ」が一箇所に収集される実践が、いつ、どのようにして可能になってきたのかを明らかにすることである。
「クチコミサイト」と呼ばれるウェブサービスの主要なものは1996~1997年に登場する。2000年代以降、インターネットの普及と共に、これら「クチコミサイト」も急速に普及した結果、日常的に「クチコミサイト」を閲覧し、消費行動の参考にする事は、今では相当程度一般化している。またこうした状況から、近年マーケティングの分野で「クチコミ」に対して注目が集まっている。
しかしながら、消費行動の参考にされる「クチコミ」を収集し、コンテンツとして提示する情報様式のあり方が、歴史上どの時点から存在していたのか、そうした情報様式はどのように成立してきたのかについては、これまで明示的に論じられてこなかった。本研究はこうした情報様式の提示が、いつ、どのように成立してきたのかを明らかにすることで、消費行動の参考とされる「クチコミ」を収集・提示する実践を、インターネットの普及前後を通して連続的に捉える視点を提供することを目的とする。
【先行研究との差異】
「クチコミ」のマーケティング分野からの注目を論じた既存の研究は、「クチコミサイト」の登場前後で、大きく二つに分けられる。
「クチコミサイト」が登場した後の研究群は、「クチコミ」や「うわさ」に対するマーケティング分野からの注目が1990年代から存在していたことを指摘するものの、この時期に消費行動の参考にされる「クチコミ」が収集・提示される事態について、データに基づいて具体的に論じてはこなかった(遠藤薫編著,2004『インターネットと〈世論〉形成』;飯倉義之,2013「都市伝説が「コンテンツ」になるまで」『口承文藝研究』36号)。
他方で、「クチコミサイト」登場以前には、「クチコミ」を一箇所に収集しコンテンツとして提示するあり方を歴史的に捉える観点が欠けていた(南博・社会心理研究所,1976『くちコミュニケーション』;電通EYE・くちコミ研究会,1995『ヒットの裏にくちコミあり』)。
本研究では、消費行動の参考となるクチコミを収集し「クチコミ情報」として提示する実践が具体的にどのように生起してきたのかを、言説資料を元に明らかにする。
【研究の方法】
「クチコミ(クチコミ情報)」についてのテクスト資料を分析する。この際「クチコミ情報」を収集し、コンテンツとして提示するテクストと、そうしたコンテンツについて言及するテクストの双方を用いる。中心的に使用するテクストは、「クチコミ情報」をコンテンツとして提示するものとして、雑誌、ムックを扱う。また、そうしたコンテンツとしての「クチコミ情報」に言及するテクストとしてビジネス書、マーケティング関連の業界誌を扱う。いずれも1980~1990年代のテクストを中心として扱うが、歴史的文脈を確認するため、1973年オイルショック以降数年間のテクストも補助的に用いる。
【得られた知見】
第一に、「クチコミ情報」というコンテンツの提示は、1980年代後半から、雑誌上のコーナーとして既に存在しており、この時期から、それ以前には僅かしか見られなかった「クチコミ情報」という言葉が広く用いられるようになる事を明らかにした。「クチコミ」という言葉自体は1960年前後に既に存在しており、1973年の物不足パニックをきっかけとして一時的に注目が集まったものの、その時点では「クチコミ」を一箇所に収集し、「クチコミ情報」として提示する実践は見られていなかったものであった。
第二に、このような「クチコミ情報」の提示は1990年代を通して雑誌を中心に増加しており、同時にクチコミに注目する言説が1990年代前半から中頃にかけて増加してきた点を明らかにした。これは、1990年代後半から、インターネットの普及とともにクチコミが盛んになった結果、クチコミに対するマーケティング分野からの関心が高まってきたとする、ある種の技術決定論的な見方に対する修正を示唆するものである。
ソーシャルメディア上のコミュニケーションから生じるトラブルの要因について-性年代別調査から考察する-
吉武 希(上智大学大学院 院生)
【キーワード】コミュニケーション論、インターネット、メディア・リテラシー、炎上
【研究の目的】
ネット上では昨今、様々なトラブルが生じている。実際にネットを介したトラブルを解決するために、様々な通報や相談窓口が設置されている。例えば、ネット上で誹謗中傷からの名誉棄損、同和問題やある人種、国籍等の個人または集団に向けたヘイトについての通報や相談をする「インターネット人権相談」等がある。
このように、官公庁府や各企業団体も含めネット上のトラブルについて取組を行っていることからも、ネット上の様々なトラブルは人々の社会に影響を与えていることがわかる。迷惑メール詐欺やマルウェアによる情報端末へのウィルス攻撃等によるものもあるが、ソーシャルメディアを介したコミュニケーションエラーから発生するトラブルは、名誉棄損やプライバシー侵害といった問題につながり、深刻化する事態が生じている。
本研究では、なぜトラブルにつながるような行動をソーシャルメディア上で利用してしまうのだろうか、という問題意識から考察してきたい。
【先行研究との差異】
山口真一(2018)は、炎上に参加しやすい人の特徴を、「男性」「年収が高い」「主任・係長以上」等の属性があるとした。
本研究では、属性や性年代別によって特徴があるということに加えて、ソーシャルメディアの利用方法や考え方、そして年代ごとの意識の差異に焦点を当てて調査、研究した。当該調査については、筆者が「公益信託高橋信三記念放送文化振興基金」からの助成で調査を実施したものである。
【研究の方法】
10代から60代の男女各約150名を調査した「インターネット上のモラル・マナーに関する調査」と各種調査や文献調査を基に論じていく。
【得られた知見】
調査からは、はじめに、「ソーシャルメディア(SNSを含む)上で誹謗中傷を発信することは問題ないと思いますか?」といった質問について、「問題ないと思うので自分も発信・共有する」と回答したのは、10代男性が5.5%、20代が6.5%、40代が5.3%と平均の2.9%と比べると高い。40代女性も3.2%と、女性の中では唯一平均よりも高い結果となった。また「問題ないと思うが自分は発信・共有しない」と回答したのは、40代男性が15.8%、女性が9.7%と「問題ないと思うので自分は発信・共有しない」と合わせると、同性の中では最も割合が高い結果となっている。
次に、「ソーシャルメディア(SNSを含む)上で、自分の意見・主張を何でも発信することは問題ないと思いますか?」といった質問について、「問題ないと思うので自分も発信する」と回答したのは、10代男性が14.4%、10代女性が8.4%、20代男性が7.8%、40代男性が7.2%と平均の5.1%と比べると高い。
これらの調査結果からは、40代男性は誹謗中傷を発信すること、自分の意見を自由に発信することについて問題ないと回答している人が多い。回答者の40代男性の職業属性をみると約3割が「会社役員・管理職」で最も多い。一方で、10代と20代のような若年層は誹謗中傷を問題だとする考えがある一方で、自由に発信してもよいと考えている人が多いという特徴だった。
「炎上」を引き起こし、批判・誹謗中傷をする人は「正義感型」と分類される人に多いとされている。本調査では40代男性が誹謗中傷等についての考え方と、「炎上」に参加しやすい属性の特徴と一致した。しかし、「正義感」による批判を受けるのは、「炎上」の対象は一般人が多いとされていることから、著名人等ではない場合が多いだろう。
一方で、著名人等に対しての誹謗中傷による「個人攻撃」は、炎上の主な動機とされている「正義感」を持った攻撃的な発信は少ないだろう。なぜなら、著名人等に対しての「個人攻撃」は、ソーシャルメディア上でのコミュニケーションはテレビの前で発言するといった行動の延長線上にあるのではないかと考えるからである。感想をテレビの前で発言しているという意識で「個人攻撃」となるような発信をしていると考えられる。これは40代男性だけではなく、若年層の自由に発信してもよいという考えから、気軽な発信が「個人攻撃」となり、トラブルの要因となっているのではないだろうか。
従来では放送番組に出演していたタレント等と直接コミュニケーションをとる機会は稀であった。しかしソーシャルメディアが普及したことで、宣伝が目的などで著名人やタレント自身が利用を始めるケースも増え、視聴者がタレントとコミュニケーションを直接取ることが可能となった。新しいコミュニケーションの場が生まれ、コミュニケーションの方法は変わったが、考え方は「テレビの前」という場所にいる感覚から変化していないのではないか。場所の特徴に合わせたコミュニケーションをとらないことで、コミュニケーションのエラーが生じ、トラブルにつながっているのだと考える。
ソフトパワーとしてのクールジャパンプロジェクトと日本のポピュラー文化
トゥホルスキ ミハウ(株式会社ディ・ポップス)
【キーワード】ソフトパワー、ポピュラーカルチャー、クールジャパンプロジェクト
【研究の目的】
本研究はJoseph Nyeのソフトパワー概念に基づいて国際的な場面における日本のポピュラー文化の人気と日本のソフトパワーとしての成功の度合いを論じる試みである。
【先行研究との差異】
本研究における先行研究は日本のポピュラー文化(アニメ、漫画、ドラマなど)の人気、そしてその特徴を論じている研究である。Nye(2004)、Allison(2008)、Condry(2013)、Otmazgin(2014)の研究はいずれもアニメの人気とその原因に注目している。
本研究では、先行研究における知見を参考としつつ、Joseph Nyeのソフトパワー概念が、日本のポピュラー文化へ適用することが可能かどうかを通して論じる。具体的に、本研究は日本のポピュラー文化の国際的な人気はどの程度日本のソフトパワーの実現として評価できるかについて調べている。
【研究の方法】
本研究では、日本のポピュラー文化の国際的な普及の原因をテーマとするNissim Otmazgin、Ian Condry、岩渕功一(2002)、三原龍太郎(2010)による先行研究を批判的に検討し、その上で、「クールジャパンプロジェクト」を担当する日本政府の知的財産戦略本部が発行した年間レポートへの質的言説分析を試みた。具体的な研究の問いとして、以下の研究問題を設定した。
第一に、ソフトパワーの定義、とりわけポピュラー文化におけるソフトパワーの定義を明らかにすること、第二に、市場向けの日本のポピュラー文化の製作、普及、消費に焦点を当てて、日本ポピュラー文化が国際的に流行る原因を解明すること、第三に、クールジャパンプロジェクトにおける政策における具体的な目標を明らかにすること、最後に、日本のポピュラー文化の国際的な人気とクールジャパンプロジェクトの政策の中身を比較検討し、日本ポピュラー文化におけるソフトパワーの意味について批判的な考察を加えることである。
ソフトパワーの定義として初めてその概念を作ったJoseph Nyeの定義、そして、Nyeのソフトパワーの働きをポピュラー文化という文脈で研究しているAnne Allisonのソフトパワー定義が使われた。
Nyeの定義であるソフトパワーとは国の国際的なイメージを資源とする影響力である。国のハードパワーを構成する経済力や軍事力とは異なって、ソフトパワーは国の魅力を通して、国際的な憧れを狙っている。Nyeのソフトパワーが三つの場面で働くことができる。それは文化、政治的な価値観、外交政策である。
Allisonの定義である文化のソフトパワー、そして、具体的にポピュラー文化のソフトパワーとは、国際的なアクターによって作られる現象である。そのように作られたポピュラー文化の作品は一つの国のソフトパワーを発することができかねる。
日本のポピュラー文化の国際的な人気に関する専攻研究の分析で三つの問題点は:➀日本のポピュラー文化は誰によって作られる? ➁どのように普及されている? ➂どのように解釈されている?
日本政府の知的財産戦略本部の年間レポートの分析では問題点は:➀クールジャパンプロジェクトの定義は何か? ➁クールジャパンプロジェクトにおけるポピュラー文化をテーマとする政策の数は?その内容は何?
上記の分析を基にして、日本ポピュラー文化が国際的に流行ってる原因を国際的な視聴者、クリエーター、起業家の視点、そして、クールジャパンプロジェクトの内容として日本ポピュラー文化を取り扱う日本政府の視点を比較することができて、日本のポピュラー文化のソフトパワーを明らかにすることができた。
【得られた知見】
視聴者、クリエーター、起業家の視点に基づいて、日本のポピュラー文化の人気に関して三つの発見ができた:➀国際的な市場に出ている日本ポピュラー文化の多くの作品は国際的なクリエーターによって作られて、ストーリーのアイディアとして全世界の文化が使われる。 ➁日本のポピュラー文化を国際的に普及している多くの起業家は外国人であって、日本のポピュラー文化のファンである。 ➂日本ポピュラ文化のファン達(視聴者達)の多くは好きなアニメとマンガの生産国が分からない。
知的財産戦略本部の戦略の分析の上、クールジャパンプロジェクトに関して三つの発見ができた:➀ 政府のプログラムにおける「クールジャパンプロジェクト」の定義は曖昧であること、➁ 「クールジャパンプロジェクト」の名称を使うプログラムのほとんどは国内のプログラムである。➂ クールジャパンプロジェクトの中でプロモーションされるポピュラー文化は毎年段々小さな割を占める。
結論として、日本ポピュラー文化のソフトパワーはAllisonが作ったソフトパワーの定義と近いことを証明した。なお、クールジャパンプロジェクトにおける日本のポピュラー文化のソフトパワーは日本政府がわかる国のソフトパワーとしては使えがたいことが明らかになった。
1990年代のメディア言説における朝鮮戦争の記憶
司会者:土屋礼子(早稲田大学)
問題提起者:崔銀姫(佛教大学)
討論者:毛利嘉孝(東京芸術大学)
(企画:メディア史研究部会)
【キーワード】 朝鮮戦争、反共、身体、1990年代、ドキュメンタリー
本ワークショップでは、主にメディアにおける「イデオロギー」と「主体」の問題について歴史的かつ文化的な考察を試みる。その際、近代から現代に至るまで朝鮮半島や東北アジアを中心とする世界秩序形成の歴史において重大な分水嶺の一つとなった「朝鮮戦争(1950年6月勃発〜1953年7月停戦協定締結)」を中核に捉える。今年は朝鮮戦争勃発(1950年6月)の70周年となる節目の年であり、こうした研究視座のプロセスの妥当性も含めて「なぜ今朝鮮戦争なのか」という問題についても議論したい。
ワークショップの具体的な内容としてまず、問題提起者である崔(チェ)会員が、韓国への脱北民 (北朝鮮からの難民)の数が年々増加していて2019年の統計によるとその数が3万5千人以上に登っているという現状や、そして南韓国におけるこうした脱北民の頻繁なテレビの露出と脱北民という身体のエンタメ化の消費の拡大、脱北民YouTuberの登場と関連テーマのグローバルなネットワーキング化といった現状に注目しながら、他方で、第二次大戦後に二つの国家が形成され対峙してきた朝鮮半島の理念分断の歴史や、現政権(文在寅政権)になってから激変してきた韓国における統一をめぐる大衆の関心の高潮と理念葛藤の再燃、近年日韓におけるナショナリズム的な差別言説やデモが広がっている状況を踏まえつつ、朝鮮戦争以降南韓国において国是のような支配的イデオロギーとなった「反共」という言説的ヘゲモニーが、朝鮮戦争以降南韓国においていかに他者を構築しつつ他者とともに変化してきていた(いる)かについて、いわゆる二項対立のイデオロギーに「抗う身体」として登場する「第3国」を選んだ捕虜たちの主体(性)を中心に関連する具体的なメディア言説の事例をあげながら報告する。
これまで朝鮮戦争に関しては日韓共に膨大な先行研究の実績があるが、関連する映像や文学、新聞といった各々の韓国のメディアにおける言説分析を中心に「選択する国家」と「離脱する身体」の拮抗する問題を批判的に捉え直しつつ、朝鮮戦争とナショナリズムに関わるイデオロギーと主体をめぐる構築と脱構築の関係性や内在的な変容については必ずしも十分に論じられてこなかった。また実際に韓国のマスメディアにおける朝鮮戦争への歴史的な再検討が本格的に始まったのは、ポスト冷戦期である1990年ごろからである。したがって本報告では、戦後40年に当たる1990年に放送された韓国公共放送(KBS)の朝鮮戦争40周年特別番組である『朝鮮戦争』10回シリーズ(本放送は米国タイム・ワーナー社によるThe Greatest Movies Ever Made 100に選定された(1994))や、韓国文化放送(MBC)の朝鮮戦争特別企画番組である『76人の捕虜たち』(1993年放送)、戦後60年に当たる2010年に放送された韓国公共放送(KBS)の朝鮮戦争特別企画番組である『特別企画 朝鮮戦争』シリーズ(10回)を主な研究対象として絞りつつ、そして関連する新聞記事や大衆小説などの各々のメディアにおける言説から掬い上げた「戦争」と身体を中心に、他者として構築されながらもまた変化していく過程を重点的に取り上げる。
続けて、崔会員の報告の内容を踏まえながら、『ストリートの思想:転換期としての1990年代』を上梓(2009)しており、その後ポストヒューマン時代の人々を取り巻く様々なメディア環境の変化やそれに伴う問題について活発な研究を続けている毛利嘉孝会員が、討論者として、メディア研究と文化政治の視座から戦争と主体のテーマを中心とする理論的かつ実践的研究動向を中心に議論を深めつつ、1950年代朝鮮戦争以降ポスト冷戦期を経て現在に至るまでの戦争(湾岸戦争やイラク戦争などの内戦を含めて)とメディアとの関係性から見えてくるグローバルなメディア空間と主体をめぐる特徴や変容を中心に、戦争に関するメディアからの記憶の意義と今後のメディア社会における課題や展望へと、議論の幅を広げていく予定である。
以上、本ワークショップでは、ポスト冷戦期のナショナリズムの連続と断絶の多層性を朝鮮戦争と「歴史」「メディア」「身体」「イデオロギー」と言ったキーワードを軸としながら様々な葛藤を経て内面化されてきた重層的な変容について、これまでの歴史研究領域の蓄積を活かしつつ、「歴史」と「文化」の学際的なスペクティヴから読み取っていきたい。当日は会場の参加者とともに活発な議論を交えながら、21世紀のグローバル化とネットワーキングのメディア時代における朝鮮戦争とその位置付けを今一度「記憶」できればと考える。
リベラル的文脈の外縁から眺めるメディア・国家・市場
司会者:千葉悠志(公立小松大学)
問題提起者:工藤文(早稲田大学 現代政治経済研究所)
于海春(早稲田大学大学院 研究生)
(企画:千葉悠志会員)
【キーワード】権威主義体制、制度、国家、市場、メディア
近年、権威主義体制に対する評価の見直しが進んでいる。1989年の東欧革命や米ソによる冷戦終結宣言は、自由民主主義体制の勝利を示すかのように思われた。しかし、それから四半世紀余りが過ぎた現在では、むしろ権威主義体制の強靭性や、民主主義体制へと与える脅威の側面がより強調されるようになりつつある。それまで、「民主化に取り残された国々」という印象に過ぎなかった権威主義国家であったが、現在では「リベラルな国際秩序に挑戦する国々」や「様々な手段を通じて民主主義を蝕む国々」といったイメージさえ強めつつある。権威主義体制を、かつてのように「民主主義の前に劣勢に立たされた体制」と捉えることはもはや時代錯誤と言えよう。また民主主義体制が確立された国々でも、右派政党やポピュリスト政治家の台頭によって民主主義の危機が叫ばれつつある。こうした世界的情勢の変化に鑑みて、政治学の分野では、権威主義体制の柔軟性やその巧妙さに関する研究が進められており、最近では権威主義国家が民主主義国家の脆弱性をついて仕掛けるシャープパワーの脅威や、サイバー攻撃の問題などにも関心が払われるようになりつつある。
こうした状況の変化は、権威主義体制とメディアについての既存の研究枠組みにも再考を迫るものである。従来のメディア研究では、メディアは言論の自由の拡大や、公共圏の議論と絡めて論じられることが多く、そこには「民主化バイアス」と呼べるような特定の偏向が存在してきたと考えられる。とくに、未だその傾向が強い日本にあっては、権威主義体制とメディアとの関係が論究される際に、半世紀以上に前に書かれた『プレスの四理論』が引用され、これに代わる研究枠組みの模索が続いている。しかし、学問的なパラダイムがある特定の政治社会的な文脈のうえに築かれるものである以上、現在の国際情勢変化を踏まえて、権威主義体制とメディアとの関係を問い直す必要があることは自明であろう。なお、海外の学術研究に目を転じると、メディアの発達が権威主義体制を脅かすというような単純な議論がおこなわれることは少なくなっており、むしろメディアが権威主義体制の持続や体制の強化にいかに作用するかを分析した実証的な研究が蓄積されつつある。こうした国際情勢の変化や、海外の学問動向に鑑みて、本ワークショップでは権威主義体制とメディアとの現在の関係を正面から扱いたい。
司会者(兼討論者)、問題提起者2名は、それぞれ権威主義体制下のメディア・国家・社会に関して研究を進めてきた。今回のワークショップでは、それぞれの研究を横断するかたちで、以下の事柄に関して検討を行いたい。まず、現在の世界的にみられる民主主義国家と権威主義国家との関係性や、権威主義国家とメディアをめぐる学術研究の動向を考える。また中国と中東を具体的な事例としながら、情報通信技術の発達や自由主義経済の導入に伴うメディアの民営化などの諸変化が、権威主義体制の持続やその強化などにどのように、そしてどれほど結びつくものなのかを検討する。さらに、メディア研究と政治学の接点についても考えたい。本ワークショップを通じて、日本における権威主義体制とメディアについての最新の研究動向を共有し、今後の研究の方向性を展望する。
「メシ友批判」を/から考える-日本のメディア・エリートたちの権力生成メカニズムとジャーナリズムへの含意-
司会者:小川明子(名古屋大学)
問題提起者:南 彰(朝日新聞社)
討論者:高橋純子(朝日新聞社)
(企画:ジャーナリズム研究・教育部会)
【キーワード】メディア・エリート、首相動静、政治報道、食事、メディア社会学
日本のほとんどの新聞には、「首相動静」「首相一日」「安倍日誌」など、時の首相の一日の行動を具に追うコラムがあります。戦前から続く、この日本の新聞に特徴的な欄には、しばしば首相とマスメディアの重役、つまりメディア・エリートたちとの会食が掲載されています。このワークショップでは、こうした首相の動向の中でも、とくにメディア・エリートたちが首相と食事をともにするという行為を取り上げ、そこから日本における政治とメディアの関係について、そして日本の政治報道およびジャーナリズムについて考えてみたいと思います。
近年、安倍首相には、高級レストランや料亭で食事を共にする、特定のお気に入りのメディア関係者がいることが批判の的となってきました。しかし、荻上チキによると、実は必ずしも安倍首相だけが突出して頻繁にメディア関係者たちと食事をしているわけではないこともわかっています(荻上, 2017)。むしろ、メディア関係者が首相と食事をするという行為は、戦後脈々と受け継がれており、保守、リベラルに関わらず、日本のメディア・エリートたちにとって業界トップにのぼりつめたことを意味する象徴的儀式のようにも見てとれます。
前出の荻上チキの調査結果を詳しく見ると、安倍首相が第一期、第二期政権中に会っている人たちの肩書は、メディア企業組織最高位の会長や社長、さらに外からは社内の役割がわかりにくい「主筆」「特別編集委員」などの肩書を持つ人たち、あるいは政治部長など明らかな政治取材現場の管理職、そして実際に文章を書き、社論を担う論説委員や編集委員などに分類されます。また、共通するのは、「メシ友」のほとんどが日本人かつ男性で、きわめてホモソーシャルな世界でもあります。
「食事をともにする」ことは、すでに20世紀初頭、ドイツの社会学者G.ジンメルが「食事の社会学」という論考において、人間にとって「社会」を生み出す根源的な相互行為であると論じました。たしかに、メディア関係者たちが首相と会食することは、両者の相互作用を通して政治とメディアが交わる独特の価値界(フィールド)を生み出します。いま、海外でも、政治とメインストリーム・メディアの「癒着」が一般大衆の反感を買い、近年のメディア不信とポピュリズムの源泉となっていると指摘されています。日本でも同様に、こうした「癒着」はメディア関係者の偽善性を象徴するものとして、メディアの信頼に影を落としています。
しかし、このような世論の反発があるにもかかわらず、メディア・エリートの側は、なぜわざわざ首相と食事をともにするでしょうか―たとえば、食事の際に得た情報は、社内では情報共有されるのか。そして、そこに行くこと自体、社内ではジャーナリズム倫理との利益相反について、議論される機会はあるのか。あるいは、利益相反以上のメリットがあるとすれば、それはどのようなものか。また、首相との食事に出かける当事者たちは、読者や視聴者からの不信感やネット世界でのメディア批判についてどう考えているのか。これに対して、首相の側は、メディア業界のだれを「メシ友」とし、いつ、何のために、どのような動機で誘っているのか。また、首相周辺では、「メシ」をいっしょにすることについて、誰がどのように決定し、場所はどう選定しているのか―などなど、疑問は募る一方です。
このワークショップでは、「首相と食事をする」行為にまつわる多くの疑問や関心を、政治部の内情に詳しい記者にぶつけながら、「日本のメディア・エリート」の構造と、権力の生成メカニズム、そしてそれが日本のジャーナリズムと社会にもつ含意などを考えてみたいと思います。合わせて、こうした「メシ友」の慣習の意義や社会の側の認識は、歴史と共に変化しているのか、変化があるとすれば要因は何か。さらに、国際的にはどう理解されるのかについても考えたいと思います。
問題提起者には、『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』(朝日新書)を出版し、日本の政治報道のあり方に問題提起をされている日本新聞労働組合連合中央執行委員長の南彰さん、討論者には、伝統的な新聞政治報道のイメージを壊し、新鮮で痛快な政治コラムで有名な朝日新聞編集委員の高橋純子さんにお願いしました。二人のベテラン政治記者に、「首相との食事」という行為をめぐって、それぞれの立場から日本の政治部の現実とジャーナリズムの現在を語ってもらいます。
<参考文献>
エリス・クラウス (2006)『NHK vs 日本政治』東洋経済新報社。
逢坂巌 (2014) 『日本政治とメディア - テレビの登場からネット時代まで』中公新書。
荻上チキ (2017) 『すべての新聞は「偏って」いる』扶桑社。
H.J. Gans (1979=2004) Deciding what’s news.Northwestern University Press.
P.ブルデュー(2000)『メディア批判』藤原書店。
デジタル・メディア時代において「権力」をどう問うのか?
司会者:佐幸信介(日本大学)
問題提起者:伊藤守(早稲田大学)
討論者:檜垣立哉(大阪大学)
(企画:理論研究部会)
【キーワード】権力、情動、コミュニケーション、統治、ソーシャル・メディア
周知のように、ここ10年ほどの間で私たちのデジタルメディア環境は大きく変容してきた。この環境の変化は、メディア-テクノロジーの関係に限定されるものではなく、一方で資本主義やグローバリゼーションといった、情報の生産/流通/消費の一連の過程と相関する社会的な広がりをもち、他方でコミュニケーションや認識/知覚/情動、生命/身体といったいわば「人間」の領域にまで及んでいる。具体的には、コミュニケーション資本主義や制御=管理/監視社会、ポスト・ヒューマン、情動など理論的な論点からこれまで議論がなされてきている。つまり、デジタルメディア環境の変容に対して、メディア研究が理論的かつ方法論的にどのようにアプローチをするのか、という課題に私たちは理論的にも方法論的にも直面している。
しかしながら、社会的広がりやネットワークと人間のコミュニケーションや身体/生命に関わる領域は、相反するベクトルではない。例えば、「公開性」というこれまでメディアと公共性に相関して議論されてきた論点は、ネットワークのプラットフォームやクラウド化とともに、資本主義のビジネス/マーケティングの論理のもとでは、いともたやすく新たな制御=監視社会の側面を纏う。さらに生命情報や個人のデータの析出を稼働させているのも、公開性や知の共有/データベース化というデジタルテクノロジーのポジティブな側面だと言うことができる。あるいは、ソーシャルメディアが、マルチメディアとしてネットワークそのものとなるとき、つまりメディアやネットワークの物質性がデジタルに構成されるとき、そのネットワークはエモーショナルな意識以前的な情動のネットワークとして駆動することになる。
こうした現在の状況をふまえ、今回のワークショップでは、社会的広がりと人間へ向かう双方のベクトルを相関するような位置に、「権力」という論点を方法論的に設定し議論を試みることを企図している。ここでいう権力は、単純な支配-被支配の関係に還元される権力でも、事後的に解釈される権力でもない。むしろワークショップでの議論の広がりが可能とするために、ネットワークをネットワークたらしめ、ネットワークそのもの機能させ、人間の身体や生命の領域にまで介在するものであると、さしあたり緩やかに設定しておきたい。
議論のインキュベートや新たな論点の刺激を共有することを重視するというワークショップの目的に鑑み、今回はメディア研究および社会学と哲学という異なる知の対話の場を設けたい。そこで問題提起者として、この両者のベクトルの視座から研究を重ね、情動と権力の議論のプラットフォームを提示してきている伊藤守氏(早稲田大学教育・総合科学学術院)を、討論者として哲学領域でドゥルーズ研究、フーコー研究、生権力論を精力的に著している檜垣立哉氏(大阪大学大学院)を招請する。コミュニケーション・身体・生命の問題領域から問題提起と討論の対話を入射させつつ、権力の論点を足掛かりに理論的かつ方法論的な知の問い直しを、フロアとの応答とともに共有したい。
インターネット市民ジャーナリズムの意味変容と拡張 ―‘日常的市民’の公共圏とジャーナリズムにおける可能性を中心に―
金 恵柱(東京大学大学院 院生)
【キーワード】オルタナティヴ・ジャーナリズム、インターネット公共圏、市民ジャーナリズム、批判的市民、集合知
【研究の背景】
①市民ジャーナリズム研究における課題
市民ジャーナリズム論で主張される「市民の能動的な参加、公的討論の日常化、市民とジャーナリズムの対話」が本当に実現可能なのかは、常に議論の対象である。市民ジャーナリズム研究の権威者であるT. グラッサー、 D. メリットなども概念の曖昧性や結局ジャーナリスト側が選んだ意識の高い市民しか参加できない点を指摘している。ここから市民ジャーナリズムは理想に過ぎないという批判もある。
②市民ジャーナリズムにおける‘市民’
従来の市民ジャーナリズムは‘プロ記者と市民の協業’、‘意識のある市民の参加’、‘自立した市民メディア’などを強調してきた。ここで一般の人々の情報発信の可能性はある種の‘検証されていない物’として懸念されてきた。しかし、ジャーナリズムにおける中立、不偏不党の価値は制度的なものであり、客観主義のルールも絶対的なものではないことを検討する必要がある。また、個々人の日常的なジャーナリズム実践を明確に把握することは、その否定的側面を論じる際にも役立つと思われる。
③本研究の着目点
近年、従来のインターネット市民メディアの影響力や市民記者の波及力が以前より低下していることが見られる。同時に、ソーシャルメディアを通じた一般個人の小さな声が響き、社会に影響を及ぼす事例は多々見られる。これは従来の市民ジャーナリズム論では十分に説明できない部分がある。本研究は、個々人のジャーナリズム的実践を、新しい市民ジャーナリズムの脈略で論じたい。
【研究の目的】
本研究は、従来の市民ジャーナリズム研究である程度前提となっていた「メディア組織中心、専門家と市民の協業による客観中立性の確保、専門知識やオルタナティヴ・ジャーナリズムへの意識を持つ批判的市民中心」には当てはまらない「‘日常的市民’による市民ジャーナリズム」の実践が観測されることを明らかにし、市民ジャーナリズム論における理論的位置づけと意義を考察することを目的とする。
【研究の方法・対象】
① 様々なジャーナリズム実践の事例をまとめる
新しいメディア環境で様々な形のジャーナリズム実践が行われる中、その事例と先行研究をまとめ、変容する「ジャーナリズムとは何か」の今日的意味を把握する。
② インタビュー調査
主に日韓で2000年代前半、ニュースメディアとして影響力があった市民メディア関係者にインタビューし、その組織の仕組みやニュース生産のプロセス、主体、市民記者の活動範囲や限界を調査する。
③「日常的市民のジャーナリズム実践」の事例分析
非専門家的、日常的、非組織的な個々人の意見と情報発信がジャーナリズム的様相を呈する事例を、1の今日的ジャーナリズムの概念と2の従来の市民メディアの限界という枠組みの中で分析し、日常的市民のジャーナリズム実践として位置付ける。
【現時点で得られた知見】
① 市民ジャーナリズムという思考法とその矛盾に対する研究の流れをまとめ、市民ジャーナリズム研究の課題をまとめた。
② オーマイニュース、JanJanなどの創刊関係者にインタビューし、市民記者の活動や市民メディアの運営に伴う様々な問題について調査してまとめた。
③ 様々な領域の先行研究をレビューし、組織に参加して協力する、批判的市民からなる市民ジャーナリズムとは逆の、個人的で日常的な主体も視野に入れる必要があることをまとめた。
【今後の課題・展望】
① ジャーナリズム概念の意味変容を詳しくまとめる必要がある。
② 日常的な個人によるジャーナリズム実践の事例調査、事例の分析のための尺度調査。
書物の秩序の脱構築−−中国におけるアンダーグラウンド読書の現在
庄 悦(上智大学大学院 院生)
【キーワード】アンダーグラウンド、読書文化、読者コミュニティー、読書史
【研究の目的】
本研究は中国におけるインターネット読書を文化として認識した上、その歴史及び読者の実践を分析し、インターネットの読書文化の意義を見つけるものである。90年代末、中国のインターネットにおける読書空間は文学投稿サイトと同人プラットフォームという二つの文脈に分けて発展してきた。このような文脈の中、文学投稿サイトの秩序化、同人プラットフォームの地下化によって、読者コミュニティーもそれぞれの個性を持ちながら成立した。アングラ読者の読書空間の変容,読者と同時に作者でもあるテクスト生産者の原動力,ファンとしての読者の活動,そして彼らが直面するジレンマを分析することで,アングラ読者の活動を読み解くことを目的とする。また、ロジェ・シャルチエが提唱する「書物の秩序」に基づき,秩序の脱構築として、中国における地下読書を捉え、地下読書という存在の意義を提示する。
【先行研究との差異】
先行研究の中には2000年代以来の中国における読書に対して重複した内容の研究が多く,研究方法も単一である。李新祥(2013)は『デジタル時代における中国国民読書行為の変遷および対策研究』で「デジタル化を背景にし、メディアの発展が多元化した。国民の読書率が低く、クラシックで上品な読書が不足、功利主義な読書や浅読みが増加などのいわゆる読書危機が生まれた。こうした状況が続くと国民の創造力不足という社会的危機も生じる。そのため、政府を含む社会全体の努力で読書空間を作って、国民に良質なテクストを推薦する必要がある。」と述べている。このような研究者による「学術的距離」を提示する「客観的な」論説は少なくない。しかし,読者からの直接的知識を持っていないと同時に,コミュニティーへの積極的な関心も寄せなかった。エリート対大衆のように、読書を社会的に区分によって検討する研究も多く、先行研究では今の読者に対する偏見から、ネットにおける読書が独自の文化として発展していった点を逃していたとも指摘できる。
先行研究との差異として、本研究は読者コミュニティーに入って理解と観察を行い、アングラ読者に対して水平的な目線から活動を読み解く。文献研究によって、ネット上のアングラ読書の歴史的文脈を整理する。質的調査を重視し、読者への観察とインタビューを通じ、インターネットにおけるアンダグラウンド読書の現状を把握しようと試みた。
【研究の方法】
本研究は参与観察とインタビューを通じ、今の中国におけるアングラ読書の現状を調査し、分析する。
量的なアンケート調査を使わない理由は、中国におけるアングラ読者の活動はインターネットにおいて行なわれているため、読者が利用しているサイト、読んでいるテクストの種類、コミュニティーの仕組み、具体的な活動はコミュニティー内部からでなければ調査できないためである。また、アンケートを広く配布しても、回答者がアングラ読者とは限らない。
【得られた知見】
ネット上の読書空間のオリジナル文学サイトと同人作品サイトという二つの文脈を整理した。オリジナル文学サイトと作者は権力による管理に従い、主流に参加するために検閲を行ったり,テクストを削除したりする。サイトと作者が構築した秩序に対し,アングラ読者は様々な道具(チャットアプリ,クラウドストレージ,海外サイト)を使ってテクストを流通して消費する。海外サイトでの閲覧,境外出版社による出版,クラウドストレージでの保存とダウンロード,さらに文化的な壁の打破を目指した翻訳など,データに基づく読者研究で見逃された活動で,サイトや作者による秩序を脱構築した。
また,読者活動の越境化も進んでいる。同人作品の流通手段として、日本のPixiv,アメリカのAO3などのサイトで同人愛好者がテクストを流通している。また文化の壁を突破する文化輸出を目指して,インターネットの世界で翻訳運動を発起した。さらに,境外出版社との協力によって,テクストの一貫性を確保する。
アングラ読者(=作者)の創作を通じ,テクストはますます文化的,独特なイデオロギーを持ち,広い世界中に流通した。このような読書は一つの文化として,コミュニティーの中で発展しているとともに,外部の世界にも少しずつ潜在的に影響を及ぼしている。なぜなら,読者であるとともに作者でもある人々のイデオロギーは,彼らの作品によって伝わり,アングラ読者コミュニティーの成員の読書活動によって様々な意味を創出していく。このような意味創出は,彼らの世界観や価値観にも影響して,さらに広い世界に投影していくのであろう。
アジア各国におけるメディア倫理の「普遍性」を考察する―意識調査により比較する「期待」「失望」の実態
アルン プラカシュ デゾーサ(上智大学大学院 院生)
引地達也(一般社団法人みんなの大学校)
【キーワード】
メディア倫理、メディアリテラシー、国際調査、ジャーナリズム、メディア教育
【研究の目的】
メディア不信への対抗策としてメディア倫理の確立は急務の課題であると認識しているものの、「フェイクニュース」との表現が為政者からも市民からも取り交わされる状況に、再度「正しい」メディア行為の基礎となる「メディア倫理」の輪郭を把握することが、第一歩となる。メディアの根本的な「正しさ」が問われている中での普遍的な倫理観を示す前提として、アジア各国のメディア倫理の認識を整理するための意識調査を実施し、現代におけるメディア倫理の基礎となる各国における認識とその差異を示し、コロナ禍も踏まえた社会環境の変化の中での最適なメディア倫理の感覚と行動を見据え、未来に向けてグローバルな視点におけるメディア倫理の在り方を考察するのが本研究の目的である。
【先行研究との差異】
複数の国家への意識調査の結果を比較し、その文化特性や国民性を浮かび上がらせる手法は多くの領域で研究が積み重ねきているが、世界中が新型コロナウイルスの影響による危機にさらされ、市民が正しいメディア情報を必要としている状況での調査は例がないであろう。この「自然な」状況下における「危機」の中にあって、各国でのメディア倫理への認識はどのような形をなすものなのか、どのような「ことば」によって説明が成されるのかの調査は初めてと思われる。さらにこれまでのメディア倫理の多くはメディア業界におけるガイドラインや国の法体系、表現の自由との関連の中で語られてきたが、アジアという地域の市民を対象とした意識に着目する点も先行研究との違いであると考える。
【研究の方法】
これまでのキリスト教史やジャーナリズム史を踏まえたうえで、宗教倫理への考察とジャーナリズム領域における世俗的なメディア倫理について整理し、メディア倫理と国民性に関する文献調査と、アジア各国に対するメディア倫理に関する意識調査を実施し、その結果を分析・検討する。対象国は日本、韓国、台湾、フィリピン、インド、インドネシア、スリランカ、オーストラリア。「マスメディア報道」「ソーシャルメディア」「広告」「政府広報」「書籍・雑誌」「インターネット」のメディア領域のうち高い倫理観を求める順位付けや「報道における倫理」への自由記述回答等の計7問を設定し回答を分析した。
質問方法により統計的な傾向を抽出し、回答の言葉を質的分析するなどで各国の回答から、ほかの国との比較を加え、追加のインタビューで補足し各国のメディア状況を加味しながら、差異を詳らかにしその背景の分析及びメディア論からの考察も試みた。
【得られた知見】
メディア倫理を国家の枠組みの中で比較検討することで、メディア文化やメディア状況により、その意識に違いがあることが明確になったと同時に、メディアという「公共の場」の世界的な最近の変化を示唆する結果を得た。ハンナ・アレントの「公共空間」につながるメディアは、その倫理性を存在論的に伴っているものの、メディアへの認識のずれにより変化する倫理は置き去りにされた感もある。西洋型倫理学が神と人との関係の構図を基礎フォーマットにしている考えへの対抗として和辻哲郎は「人と人との間柄」が日本式の倫理「人倫」を説いた。これは文化背景により倫理の差異は生まれることを示したもので、当然ながらメディア倫理も同様と考えるものの、西洋型のフォーマットではとらえきれないアジア各国のメディア倫理の差異も本調査により明らかになった。
例えば母国において情報の発信は正しい倫理観のもとで行われているかの設問に対し、マスメディアに限らず多くの人が手にするメディア端末のコミュニケーション行為としてソーシャルメディア等の日常のやりとりも意識した上で、「行われている」と「行われていない」の割合を二分した場合、日本は31%対68%で「行われていない」が圧倒的に多かったのに対し、韓国は47対51、インドが42対54、フィリピンが62対37、インドネシアが57対43との結果であり、さらにマスメディアの報道活動に高い倫理観を求める傾向は、8割から9割が強く求めるインド、フィリピン、インドネシア、スリランカに対し日本は67%、韓国は71%と控えめの印象であるが、これは「失望」の形だとの考察も成り立つ。
メディアがマスメディアだけではなく、スマートホンをはじめとする携帯できる個人所有のメディアが社会へのアウトプット、社会からのインプットの道具となっている以上、もはやマスメディアは個人所有メディアの一部、もしくは従属する関係になりつつある。各国からの説明はメディアを企業と見立てたり、社会の一部として捉えたりとばらつきがあるものの、各国でのメディア像にも一定の傾向がみられた、現実的な変化の中で新しいメディア倫理の輪郭は、コミュニケーション行為の信用度ともつながり、それは市民社会の強さをも示すものと考えた場合、各国で当てるべき焦点の違いも浮き彫りとなった。
「天皇即位礼正殿の儀」日本と海外の放送局はどう伝えたか〜日本・中国・韓国・イギリス・アメリカ〜
大墻 敦(桜美林大学)
【キーワード】即位礼正殿の儀、天皇制、放送メディア、国民の知る権利への奉仕、議題設定機能、世論認知機能
【研究の目的】
令和元年10月22日、天皇即位礼正殿の儀がおこなわれ、180を超える国と地域から元首や高官が来日した。本研究の目的は、天皇即位礼正殿の儀や象徴天皇制について国内外の放送局が、どのような視点で何をどこまで深く伝えたのかを明らかにすることである。さらに国内放送局が「国民の知る権利への奉仕(議題設定機能、世論認知機能)」を果たしていたか、報道や番組に視点の多様性があったのかを探求した。
【先行研究との差異】
1989年1月の昭和天皇崩御の際には、録画機の普及がまだ進んでいなかったためか、「昭和最後の日―テレビ報道は何を伝えたか」(日本テレビ)など、個別放送局の証言記録や象徴天皇制を研究する河西秀哉准教授(名古屋大学大学院)によるメディア分析はあるが、本研究と同様の研究は管見の限り見当たらない。
「戦後70年報道 海外のテレビはどう伝えたか」では、中国、韓国、台湾、アメリカ、イギリスを対象に、その内容や視点を8月15日、8月14日、9月3日の3日間に調査を実施した。本研究の調査対象国とほぼ同じであるが、調査期間に差異があるほか、戦争というテーマが本調査では「背景」となる点で異なる。
「安全保障関連法案 テレビ報道の分析」は、2015年に成立した安全保障関連法案に関して、国会審議が始まった5月から参議院で可決した9月まで、NHKと在京民放の13のニュース番組(夜間)を分析した。調査が長期にわたる点、海外放送局の調査を実施していない点などが異なるが、放送メディアの議題設定機能を深掘りした点は共通している。
【 研究の方法】
全チャンネル同時録画機で、10月22日午前0時から24時まで、国内地上放送局6つ、NHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジテレビが製作・放送したニュース番組、情報番組(通称ワイドショーを含む)、即位礼関連の特集番組などを全て収録し、その放送時間、出演者、内容、演出などを書きだした一覧表を作成した。
海外は、イギリス公共放送BBC、中国CCTV、韓国KBS、SBS、MBC、JTBCの夕方のニュース番組と、アメリカABC、CBS、NBCの18時半から放送される国際ニュース番組、CNNの関連番組を収録した。NEWS DATA SERVICE社に依頼して全米のテレビ・ラジオ放送局で放送された即位礼関連の全ニュース項目(原稿含む)をリスト化した。
【得られた知見】
調査の結果、日本の地上放送局は、即位礼・関連番組をNHKが12時間28分、日本テレビが9時間11分、テレビ朝日が12時間33分、TBSが15時間56分、テレビ東京が1時間9分、フジテレビが9時間58分、放送し、合計は61時間15分だった。
海外の放送局は、CNNをのぞき、即位礼・関連番組はなく、主に夜間のニュース番組(30分)の中で、中国のCCTVはゼロ項目、韓国の4つの放送局は、儀式とイ・ナギョン首相の来日についての2から3項目、イギリスBBCは海外の話題として短く紹介し、アメリカはCNNが儀式の時間帯に東京からの長時間にわたる中継し、ほかの放送局は海外の話題として短く紹介した。
日本の地上放送局は、赤坂御所と皇居の間の天皇皇后両陛下の移動、賢所大前の儀、天皇即位礼正殿の儀、饗宴の儀夜を中継した。それぞれの儀式の歴史的、文化的説明を、スタジオ演出、VTR、CGなどで工夫して分かりやすく詳細に視聴者に伝えた。当日は、台風19号による被害が各地で深刻化し台風20号が北上・上陸の恐れもあることから、L字での情報提供、気象情報を適宜織り交ぜるなど視聴者ニーズに応える工夫、被災地の人たちに寄り添う姿勢が見えた。
海外の放送局は、全般に「天皇即位礼正殿の儀」の意味を丁寧に伝えていた。韓国を除き、批判的な主旨の報道はなく、異国の文化を興味本位で伝えるような深みのない報道もなく、台風による災害についても伝えていた。
象徴天皇制の課題や皇室の将来像について、日本の放送メディアが議題を設定し世論の認知を高めていたか、という視点で分析を実施したが、十全に役割を果たしていたとは言えない結果だった。また、多様な視点が確保されていたかという点に関しても、6つの地上放送局の放送内容がほぼ同じ内容であったことが実証的に明らかになった。
研究発表では、今回の研究方法に関する限界と課題についても述べたい。視聴者のニュース消費がインターネットに傾斜していることから、テレビ放送とインターネットでの情報発信を統合して調査する方法を開発していく必要性についての考察を報告する。
統計データの考古学:十九世紀統計学者の読み書き実践のメディア史
岡澤 康浩(日本学術振興会特別研究員PD・京都大学)
【キーワード】科学雑誌、読書史、引用、検索、索引
【研究の目的】
本報告の目的は、19世紀イギリスにおいて統計データがどのように生産・流通していたのかを探究することで、統計データという独特な存在物の19世紀における出現の歴史をあとづけることである。具体的には、当時の統計学をリードしていたロンドン統計協会に注目し、統計データの概念化および流通において『ロンドン統計協会雑誌』(1838年創刊)が果たした役割について探究し、そこで統計データの発表・共有・利用に関してどのような実践が行われていたのかを明らかにすることを目指す。
【先行研究との差異】
これまでの科学史的研究においても、科学雑誌というのは、新しいアイディアが提案され、異なる意見が戦われる場所として重要な位置を占めてきた。『ロンドン統計協会雑誌』も統計学および社会科学の科学史的研究においては、もっぱらそうした論争や意見の表明の場としてのみ注目されてきた。だが、いくつかの例外を除き19世紀末になるまで『ロンドン統計協会雑誌』上において重要な論争というのはおこらなかったため、同誌の初期の活動はしばしば知的に不毛だと見なされてきた。一方、統計データの記述に力を注いでいた『ロンドン統計協会雑誌』は、社会史・経済史家にとって当時の社会・経済・医療統計データを示す貴重な情報源としてしばしば利用されてきた。こうした従来の二つのアプローチは、共に『ロンドン統計協会雑誌』を研究のための素材を提供するものとしてのみ関心をもっていたと要約できる。これに対して本研究では、ともすれば素材を提供するだけの透明のキャリアとして見過ごされてきた『ロンドン統計協会雑誌』自体に注目し、その創刊と運営それ自身を研究の対象とする。これには、二つの利点がある。一つ目は、学会誌を論争や理論的提案の場とみなす立場では過小評価されていた、『ロンドン統計協会雑誌』におけるデータの提供という役割について適切に評価できることである。二つ目は、『ロンドン統計協会雑誌』に掲載された統計データを、単なる過去を理解するための素材として扱うのではなく、データを掲載するという営み自体を分析の俎上にあげられることである。集団的経験主義と呼ばれる共同的事実の集積に基礎を置く科学においては、17世紀以降では、事実の報告媒体としての雑誌、特に学会誌が重要な役割を果たしてきたことはすでに指摘されている。このことをふまえるならば、『ロンドン統計協会雑誌』における独特の事実の集積のあり方はそれ自体の権利において探求の課題となりうる。異常の、二つの利点を活かすため、本報告では統計学者たちのデータを書く/読むという実践の分析を通して、『ロンドン統計協会雑誌』がデータをどのように扱い、それが統計データという新しい存在物の歴史的生成において果たした役割を探究する。
【研究の方法】
ロンドン統計協会雑誌の設立/運営についてのロンドン統計協会内部資料の分析、および雑誌誌面の詳細な読解による分析を行う。特に、メディア史・読書史の知見を参照することで、雑誌に掲載された統計報告要約や、雑誌に付された索引といった「オリジナル」な情報を含まないがゆえに従来見過ごされてきた側面に注目する。
【得られた知見】
本報告よって、以下のことが明らかになった。まず、『ロンドン統計協会雑誌』が統計データを集積するヴァーチャルなアーカイブとして機能するように設計されていた。これは、統計学者たちが互いに統計データを共有することを目的していたのだが、このとき想定されていた読者には外国居住者のような空間的に離れたものだけでなく、後世の人間という時間的に離れた者も含まれていた。こうした、空間的・時間的に離れた読者たちが直面する統計データへのアクセスの難しさを考慮して、「いま・ここ」においてはありふれていてオリジナリティがないデータでさえも、参照の便宜のために紙面上に収蔵する「転載」や「要約」という活動が許容され、さらには推奨されていた。さらに、こうやって集められたデータを容易に引用できるように、検索ツールとして巻末索引や総合索引が準備されていた。学会誌がこうしたデータベースとして設計された背景には、少数の事例では変則的な事例による歪みが大きく、多数の事例によって補正されなければならないという認識論的前提があり、雑誌にはこうした認識論を実際に達成するという科学的役割が与えられていた。以上、同誌は十九世紀に登場した統計データの記述、利用、実践を可能にするメディア環境の重要な一部であり、そうした環境の意識的構築にも貢献した。さらに、本報告の知見はロンドン統計協会雑誌という個別雑誌の研究を超えて、学会誌をオリジナリティや著者性によって特徴付けられる個別論文の束と見なすことの問題点と、メディア論と科学史/科学社会学の交点としての学会誌研究の可能性を示した。
コンテンツ・文化産業と「再生産」
司会者:永田大輔(明星大学)
問題提起者:杉山怜美(慶應義塾大学大学院 院生)
討論者:松永伸太朗(長野大学)
(企画:永田大輔会員)
【キーワード】文化産業、再生産、生活、メディア、ライフコース
本ワークショップでは、文化産業・コンテンツ産業の中でもとりわけ文化と産業の再生産について、アニメーション産業に注目する。コンテンツ産業・文化産業・放送産業などにおいてそれぞれの異同を比較しつつ議論することで知見を積み重ねることとしたい。
コンテンツ産業はとりわけ古くは文化産業論等の枠組みの下でそれが批判的に論じられてきた。そこでは娯楽経験の画一化や表現の画一化、複製技術による芸術性の一回性の希薄化等がしばしば論じられてきた。だが、そうした問題が実際に検討していくと多面的な要素を持つことも同時に明かになってきた。
中でもアニメ産業はその「新しさ」、若者文化としての側面が注目されつつも、実際には一定期間存続してきた産業でもある。その上でアニメ産業は時期ごとにいくつかの重要な変化を経験してきた産業であるともいえる。(1)1960年代後半におけるテレビアニメ放映とそれに伴う子どもを中心に据えたマーケティングの成立とそれに合わせた産業化がなされること、(2)1970年代後半から80年代において子どもに限られないファンが見いだされるようになったことでそこに向けた作品の展開が見いだされるようになるという事態である。これを代表的な事例として、他にも様々な変化が産業的に頻繁に存在してきている産業である。こうした産業の特徴を規定するものとして、テレビやビデオ・インターネット文化等の変化がその変化の基盤が起こってきた。こうしたメディアの変化は個人の人生より早い変化に注目しているものとなっている。そうした中でアニメの文化産業としての再生産がいかに起こっているかに本ワークショップでは着目する。
中でも1970年代後半から1980年代にかけての変化は複数の研究が指摘するようにアニメの作り手とアニメの受容者の関係を緊密なものとしたと言われている。一人の人生よりも短いメディアや産業の変化が速い産業の中で、その両者の関係はどのように形成されてきて、再生産されてきたのか。本ワークショップではその中でも産業が再生産し続ける上で重要な「生活」に作り手と受け手の双方から着目することとしたい。
問題提起者の杉山怜美氏は、1990年代の中盤において、多様なメディアで同時多発的に展開されたある作品(『スレイヤーズ』)のファンに関する聞き取りを行っている。ファンを続ける上でライフステージの変化における「人生の都合」とメディアミックス等の再展開に伴う「コンテンツの都合」、社会関係やメディア環境の変化・住んでいる地域性等に伴う「社会的な都合」等がどのような影響を及ぼすか、またそもそも「ファンを続けるとは何か」に着目している。これはコンテンツ産業がその場の受容に注目しがちである中で今後重要な論点となってくると思われる。
松永伸太朗氏は、アニメーション産業の中でもとりわけアニメーターと呼ばれるアニメの作画を行う制作者に着目している。その中でも産業の担い手である労働者の再生産が如何にして可能になるのかという視点を基礎としながらアニメ制作者の内的な意味付けに着目して議論を展開している。当日は消費者や産業・メディア等が変容する中でアニメ産業の労働者の再生産や労働者が労働をし続け生活することがいかに可能になっているのかという点から討論を行ってもらいたい。
この両者の議論を基礎として据えながら、両者の再生産とメディアの関係についての議論や他の文化産業・コンテンツ産業・放送産業等との異同やその他の文化等との関係を踏まえて産業の存続可能性を「生活」に着目しつつ議論を行うこととしたい。
研究技法の共有と継承――研究の現場から シーズン0:資料の方法論
司会者:佐藤彰宣(東亜大学)
問題提起者:有山輝雄
新藤雄介(福島大学)
(企画:次世代委員会)
【キーワード】方法論、資料論、ゼミ、研究会、新聞雑誌
このワークショップでは、大学院のゼミや個人運営の研究会では通常は行われないものを、提供できればと考えている。それは、研究者個人ごとにブラックボックス化されてしまっている、資料の集め方や読み方といった資料の扱い方について、若手のみならず幅広い世代が第一線の研究者の技法を学び、共有し、継承することである。これは、メディア研究における方法論の領域に対して、資料論を研究遂行論という視点から検討するという意義がある。
こうした検討は、著書であれ論文であれ、既に完成された作品として存在する研究を、いったん解体し、その初発の源泉にまで遡航していく営為だといえよう。しかし、これは非常な困難な営為である。そもそも源泉などというものが存在するかどうか不分明であるし、遡っていけば様々な支流の合流点に遭遇し、どの流れが本流となったのかの見きわめはつかず、迷路のような水路に迷い込むことになりがちである。それを避けようとすれば、自分の選んだ遡航を正当化する、ただのサクセス・ストーリーになってしまう。
それでも今回こうした試みをやってみようとするのは、若い世代の研究者が現在の研究の到達点を批判的に乗り越えていく一助になるかもしれないと、考えるからである。できあがった著作等の書評は一般的に行われており、また歓迎されている。だが、研究のプロセスにまで遡って、研究プロセスに伏在する問題点や欠陥を明らかにすることがこれまでほとんど行われてこなかったのは、当然のことながら、完成された作品では研究のプロセスで起きた様々な問題が、絵画の下絵のごとく隠されてしまっているからである。厚く絵の具を重ねて、下絵を隠さなければ作品は完成しない。せいぜい「あとがき」で苦労話か成功談として触れるのが研究者のマナーだとされている。
メディア研究に限らなければ研究の技法を一般的なかたちで叙述した書物やガイドブックは、既に存在している。斎藤孝・西岡達裕『学術論文の技法』、中村隆英・伊藤隆『近代日本研究入門』、やや方向は違うが小林康夫・船曳建夫『知の技法』など種々刊行されている。しかし、そこでの技法のとらえ方は一様ではない。ここでは技法というものをどのレベルでとらえるのかは差し当たり深追いせず、具体的な研究を俎上に載せて様々なレベルの技法・技術を考えてみたい。
今回は有山輝雄さんが、自分のこれまで発表した研究のいくつかを具体的材料に、その研究のプロセスを逆行して、途中で起きた多くの問題を「告白」的(必然的に自慢話化するかもしれない)に報告することにする。研究の最初の着想、研究枠組みの設定、資料の探索、枠組みの修正や放棄、資料の再探索などを具体的に話すが、それらは決して一連のプロセスとして進行したわけではなく、試行錯誤のあげく混乱の泥沼からようやく抜け出した程度のことであるが、なるべく整理して話す。そこでは偶然から起きる幸運や不運、幸運に気がつかない失敗、低能力からくる諦め、断片的資料を忠実に読むことと、断片をジグソーパズルのように組み合わせるための想像力など、種々様々な問題がある。
ただ具体的な報告になるため、有山さんの存在拘束性が必然的に伴っている。特に近年の研究環境の大きな変化が、研究の技法を変えたことに注意する。有山さんの世代が研究を始めた時期には、過去の新聞雑誌を読むために東京大学明治新聞雑誌文庫に日参し新聞原紙を筆写するしか方法はなかったが、今や多くの資料がデジタル化さえ様々なデータベースが利用できるなど研究条件は激変した。また、それとはまったく別の問題だが、近現代史研究全体の動向、特に実証主義の位置づけが大きく変わったことがある。それら研究が歴史のなかで、それに拘束されていることについても触れる。
問題提起をもとに参加者、特に若い世代の研究者が率直に批判し、問題提起者自身が気がついていない研究技法に内在する欠点などを指摘・批判し、討論できれば、結果的に参加者全体の研究に利するものになるはずである。
蛇足だが、今回の試みは決して研究の能率性を目指すものではない。研究において能率性を考えざるをえないのだが、研究において能率性は追求すべき価値ではなく、能率性から生まれた研究は内実の乏しく虚飾に満ちたものになりがちである。非能率を厭わないことこそ研究にとって必要なことは無論で、今回討議したいのは、研究を能率的に進めるための技法ではなく、少しでも深みのある研究を生み出すための技法である。
もうひとりの問題提起者として、次世代委員会の新藤雄介さんが企画主旨の説明と報告に対するコメントを行い、同委員会の佐藤彰宣さんが司会を務める。今回は歴史資料の扱い方に焦点をあてているが、次世代委員会では今後、異なる研究領域における技法の共有と継承のあり方についても、世代を超えて議論できる場を作っていきたい。
ローカルメディアの課題-ビジネスと公共的事業の両立は可能か-
司会者:金山勉(立命館大学)
問題提起者:村上圭子(NHK放送文化研究所)
討論者:渡辺武達(同志社大学)
(企画:メディア倫理・法制研究部会)
【キーワード】地域メディア、放送法改正、ローカルメディア、メディア倫理、公益性
昨今の総務省による「放送を巡る諸課題に関する検討会」などでの議論が行われる中、今後の放送事業者のあり方や将来が問われている。中でもローカル民放やケーブルテレビ局を始めとする地域メディアは、NHKや民放の常時同時配信の見通しや、アメリカの有料動画配信サービスなどの日本での開始によって、今後の経営と内容的公共性と公益性の両立がさらに困難になることが予想されている。これらのことは紙媒体の新聞がすでに経営的に迫られてきたことだが現在岐路に立つ地方のローカルメディアを、今後どのように維持していくか、またローカルメディアの再興はあるのか、本ワークショップではその現状と突破口や将来について議論したい。
問題提起者の村上圭子会員(NHK放送文化研究所研究主幹)は、『放送研究と調査』2019年3月号に掲載された「これからの“放送”はどこに向かうのか?Vol.3」において、地域メディアの現在と今後について論じている。例えば地域における存在意義を高めようと取り組む地域メディアのさまざまな事例を紹介し、その未来像を語る上での論点を挙げている。網羅的かつ徹底的に地域とつながる取り組みを続けるローカル民放が、ビジネス化の見通しが立たない中、同地域の他の放送局との競争もある中で、かなりの勇気と覚悟を持った経営判断で地域と向き合っている例を挙げているが、同じ地域メディアであるケーブルテレビがすでに実質的に地域独占事業であるのと比較すると、同じローカルメディアと言ってもさまざまなケースがあり、多角的論点からこれらの諸問題への解決方法を探る。
討論者の渡辺武達会員はメディア倫理を専攻するとともにこれまでに地域新聞社や地域放送局の外部審議委員などを務め、さらにはNHKと民放テレビのドキュメンタリー番組のコーディネーターとして多くの現地ロケに関わってきている。そうした中で、現在の新聞やテレビがネット時代のなかでどのような問題に直面し、新聞倫理綱領や放送法の述べる社会的公益性とビジネス論理の間で苦悩する実態について考えてきた。そうした中で、現在の学会のメディア論議が「客観視」を表にして実際には発信者・制作者たちの現場の苦悩を軽視したかたちで進行しがちなことを憂慮してきた。
また経営改善と技術の進歩面ではすでにケーブルテレビ局が4K放送、Wi-FiやIoTサービス、電力やガスなどの新サービスを開始しており、ビジネス的にはメディアだけではなく多様な機能を持つ事業者となっている。こうしたローカル民放やケーブルテレビが今後実際に経営統合や再編がなされていくかはわからないが、視聴者・読者にとっての地域メディアバランスという観点から放送政策を考える視点が重要だとの指摘が登壇者だけではなく各所でなされている。
本ワークショップでは、現在の激変しつつある社会情報環境の中でメディアとりわけローカルメディアにはどのような再興の仕方があるのか、同時にそれらのメディア機関が社会的公益性をどのように果たしていけるかを考え、今後どのような未来像を考えていけばよいのかを議論したい。
メディア論 VS マス・コミュニケーション論
司会者:小谷敏(大妻女子大学)
問題提起者:新井克弥(関東学院大学)
早川洋行(名古屋学院大学)
(企画:早川洋行会員)
【キーワード】メディア、マス・コミュニケーション、パラダイム
近年、メディア論という言葉をよく聞くようになった。たとえば、筆者の勤務する大学では、「メディア論」という講義が「コミュニケーション論」という講義と並んで設置されている。図書館や本屋の棚を見ても、従来「マス・コミュニケーション」と表示されていた棚が「メディア」という看板に書き変わっていたり、そこに並んでいる本の題名が「メディア論」「メディア史」「メディア文化」「メディア・コミュニケーション」等の文言にあふれていたりすることが多くなった。
こうした変化が、個人にとって情報発信機能を飛躍的に向上させたパソコンやスマホによってもたらされたことは言うまでもない。かつては、放射状のルートを通じて不特定の多数の大衆(マス)に情報伝達を行うことは、マス・メディアの独占事業であった。しかし、もはやそうしたマス・メディアの牙城は崩されてしまった。この現実を前にして、われわれマス・コミュニケーション学会のなかには、現在が、かつて新聞学会がマス・コミュニケーション学会と名称変更を行ったときと同じような、あるいはそれ以上の時代の転換期をむかえていると考える会員は少なくないように思える。
しかし、問題はここからである。この現代的状況を前にして、二つの異なる主張が存在している。
一つの主張は、時代の転換期をパラダイム転換の好機と捉え、メディア論の観点からこれまでのマス・コミュニケーション論を再解釈、再評価しようとする立場である。この主張は、記号論や身体論、そして社会理論の着想を導入して、従来のマス・コミュニケーション論を解体再構築しようとする野心的な立場である。もう一つの主張は、従来のマス・コミュニケーション論を再整理すれば、その連続性の中に現時点を位置づけるのは十分可能だと考える主張であって、この場合、修正は限定的であり、従来からのパラダイム転換は必要ないとみなす立場である。
便宜上、前者をパラダイム革新派、後者をパラダイム維持派とよぶと、マス・コミュニケーション研究者のなかで最も多いのは、じつはそのいずれでもない。大多数の研究者は、そうした理論的追究を避けて、ただただ現在のメデイアとマス・コミュニケーションの状況を述べるだけの現状追認派だと言ってしまえば、言いすぎだろうか。
ここで言うまでもないことだが、学問は、日々変化する状況を後追いするだけではいけない。研究者には、そうした現実の歴史変化をどのように解釈し、明確な姿で一般の人たちに示して見せるのかが問われているのではなかろうか。
そこで、このワークショップでは、「メディア論VSマス・コミュニケーション論」という対立軸を立て、現代社会のメデイアとマス・コミュニケーションの状況変化のなかで、われわれ研究者は、研究パラダイムを革新すべきか維持すべきかについての本格的な議論を行いたい。したがって、本ワークショップでは問題提起者2名の構成をとる。問題提起者には、前者の主張者として新井克弥関東学院大学教授、後者の主張者として早川洋行名古屋学院大学教授を予定している。尚、二人の報告者そして司会を勤める小谷敏大妻女子大学教授はいずれも、社会学史のなかに「マス・コミュニケーション」を位置づけた功績で著名な故・守弘仁志熊本学園大学教授と親密な交流があった。この企画は、若くして志半ばで急逝された守弘先生に捧げるものでもあることを付言しておきたい。
障害とマス・メディア
司会者:山腰修三(慶應義塾大学)
問題提起者:小倉和夫(日本財団パラリンピックサポートセンター)
塙幸枝(神田外語大学)
中村美子(NHK放送文化研究所)
討論者:烏谷昌幸(慶應義塾大学)
星加良司(東京大学)
パラリンピックの開催が迫ってきた。オリンピックと比べて知名度が低かったパラリンピックであるが、今回の日本開催を通じて認知度が大幅に改善されることが期待されている。この機会に、従来本学会でそれほど注目されてこなかった障害とマス・メディアという問題の領域に新たに光を当ててみたいというのがこのシンポジウムの目的である。
英語圏では「障害とメディア」研究が既にひとつのジャンルとして確立されているが、本学会においてはこうしたテーマに取り組む研究者は少なく、シンポジウムのテーマとしても正面から取り上げられたことがないように思われる。そこで、今回のシンポジウムでは、学会の外からパラリンピックの啓発事業に長年関わって来られた人物や「障害と笑い」の研究に取り組む若手研究者、障害学の専門家をお招きし、障害とメディアという研究テーマの意義や可能性について率直な議論ができればと考えている。
議論の具体的な内容としては以下のような点を予定している。
第一に、今回のパラリンピックの実現を通して、どのようなレガシーを日本社会に定着させていくことができるか、そのためにマス・メディアに何ができるのかを考えていく必要がある。このシンポジウムでは、とりわけパラリンピックが障害者の社会参画および共生社会実現のためにどのような影響を持ち得るか、そのために放送メディアにどのような貢献が求められるかという問題を具体的な論点のひとつとして取り上げていきたい。
ただしその際、これまでパラリンピックというメディア・イベントが現代社会の中に定着してきた経緯において、国家の様々な政策領域とどのような相互連関を生み出してきたのかを批判的に問い直す視座を持つことも必要と思われる。というのも、パラリンピックはそもそも第二次大戦の傷痍軍人の治療と社会復帰を目的とした事業から生まれたという歴史的ルーツを持つものであり、今日においてもなお現在進行形で起きている戦争がパラリンピックの選手たちを生み出し続けている現実があるからだ。パラリンピックを通した共生社会の実現という問題を考えるためにもメディア・イベントと国家の関係を歴史的、複眼的に捉える視座を構築していかねばならない。
第二に、障害者のメディア表象に関わる問題について大いに議論を深める必要がある。障害者はメディアの中で時として不自然なまでに感動物語と結びつけて描かれる。この点をめぐって近年「感動ポルノ」という概念による批判が注目を集めてきた。「感動ポルノ」のメディア・フレームはパラリンピック報道においてもひとつの議論の焦点をなすであろうが、そこにとどまることなく議論の射程を広げていく必要がある。
とりわけ障害のメディア表象をめぐる豊かな可能性について優れた事例に目を向けていくことは何より必要だ。ここで注目したいのは、NHK・Eテレの「バリバラ」である。障害者が自らの障害を笑いにかえていく同番組は、従来の障害者のステレオタイプを小気味よく打ち壊してくれる。そして障害者の本音や率直な声をより生き生きと描き出す上でバラエティという方法が極めて有効であることも教えてくれる。この番組からメディア研究者が学び取れることは極めて大きいはずだ。
第三に、そもそも障害とは何なのか?障害学の領域では、「障害」の概念そのものを捉えなおそうとする議論が長らく続けられてきた。障害概念についての基礎的な考察作業の成果が、障害とメディアに関する研究を進めていく上でどのような有益な示唆を持ち得るかという点にまで踏み込んで議論をしてみたい。