2020年秋季大会要旨集(1日目)

「かわいい社会運動」の作法−社会運動参加者による「語り」の意味を考察することを通して

陳 怡禎(日本大学)


【キーワード】サブカルチャー、二次創作、社会運動

【研究の目的】
本研究の目的は、台湾や香港の社会運動参加者は、いかに社会運動について語るか、さらにその語りを絶えずに交換することを通して、新しいかたちの社会運動を形作るのかを考察することである。

【先行研究との差異】
多くの研究者は、従来の社会運動と異なる特徴を持つ「新しい社会運動」の「祝祭性」や「日常性」について指摘している(毛利 2003, 渡邊2012, 伊藤2012, 富永2016, 富永2017)。例えば、毛利は、「シアトルの闘争」以降、ダンスパフォーマンス、ミュージック、色とりどりの横断幕やプラカードなど、従来の社会運動では見かけられない様々なカーニバル的なパフォーマンスが、様々な運動で現れてきていると分析している。実際、このような社会運動は、二〇一一年に起きた「オキュパイ・ウォールストリート」や「アラブの春」から始まり、新しい形のアクティヴィズムとして世界中の広場に続々と出現し、現代社会運動の基本的なかたちとなっていると考えられる。その性質が浮かび上がった理由としては、今まで社会運動とは無縁だったと思われる様々な人々を巻き込むため、社会運動のシリアスな側面より楽しい側面を前面に出しているからだといえるだろう。
ここで注目しなければならない点として、今まで社会運動とは無縁な市民の注目や関心を引き出すため、新しい社会運動が「楽しさ」や「鮮やかさ」を前面に掲げる点である。また、Zeynep Tufekci(2017)は、かつてマスメディアに独占された社会大衆からの限定的な「注目」は、現代社会運動におけるソーシャルメディアの活用によって、その範囲に変化があったと論じている。また、Zeynepは「アラブの春」などの現代社会運動は、インターネットを通して国際的注目を求め、運動規模の拡大を図っている動きも見せているとも指摘している。一方で、本研究がとりわけ注目している台湾のひまわり運動や香港の雨傘運動のソーシャルメディア上の注目度に対する調査もある(鄭と陳 2016)。
しかしながら、このような社会運動参加者による「外向きの語り=宣伝、アピール」に対する先行研究が多いことに対して、彼らによる「内向的な語り」は、検討されてこなかったと言える。本研究は、台湾・ひまわり運動や香港・雨傘運動を事例として取り上げ、その参加者コミュニティー内部の語りを考察していく。

【研究の方法】
本研究では、以下のように研究を進める。 
まず、台湾や香港の学術機関によって立てたれたデジタルアーカイブに保存されている、ひまわり運動や雨傘運動現場に残されていた、①それらの運動に因んだ様々な創作物、②運動現場風景の記録写真や③報道記事を主要データーとして用い、これらの二つの運動の特徴を解明する。
さらに、筆者は、インタビュー調査を受けてくれたこれらの社会運動に参加した経験を持つインフォーマント(台湾のひまわり運動に参加していた九名、香港の雨傘運動に参加していた六名の二〇〜三〇代女性)から、現場の風景について伺ったほかに、二〇一四年三月二九日、三〇日には実際に台湾のひまわり運動の現場に尋ね、フィールドノートを作成した。そのため、本研究では、既存データーに加えて、インタビューノートやフィールドノートなどの一次資料も利用して考察を進める。

【得られた知見】
本研究の考察を通して、台湾・ひまわり運動や香港・雨傘運動の参加者は、日本アニメや漫画の二次創作や、日本風キャラクターを用いて、様々な創作物を生み出したことが明らかになったが、そこでとりわけ注目に値するのは、「本土意識」やアイデンティティゆえのこれら二つの社会運動において、日本発のサブカルチャーが大量的に流用されていた点である。本研究がその日本のサブカルチャーを活用していた二つの社会運動を考察した結果、以下のような知見が得られた。それらの社会運動の参加者によって創作された作品は、占拠された空間の中に遍在している。しかしながら、街道への占拠とはいえ、実際にそれらの社会運動の現場に足を運ばなければそれらの作品を目にする機会が少ない。つまり、それらの創作物は、運動空間外部からの注目を集める役割より、「内向的な意味交換」という機能がより重視されていると言える。参加者たちが創作物を生産したり、消費したり、さらにその作品に加筆=再生産したりすることを通して、社会運動に意味を付与し続けていると言えるだろう。


不確実性の高い災害におけるマスメディアを通じた情報伝達のあり方

○橋本 純次 (社会情報大学院大学)
○鈴木 優香理(東北大学大学院 院生)
坂田 邦子 (東北大学大学院)
大内 斎之 (新潟経営大学)

【キーワード】不確実性、災害報道、新型コロナウィルス、リスク・コミュニケーション、専門家と専門知

【研究の目的】
本研究の目的は、新型コロナウィルスに関する報道とそれに対するオーディエンスの反応から、不確実性の高い災害におけるマスメディアを通じた情報伝達のあり方について検討することにある。本研究はアンケート調査により、①新型コロナウィルスをめぐる報道が、時期・内容の両面において適切に提供されたか否か、②オーディエンスが新型コロナウィルスの「専門家」をどのように捉え、それになにを求めたか、といった事柄について、地域による差異にも目を向けつつ検証する。加えて、テレビと新聞における具体的な報道内容を分析することで、不確実性の高いリスクの民主的管理におけるマスメディアの課題を指摘する。

【先行研究との差異】
不確実性の高い問題とメディアの関係性について論じた先行研究として、ダイオキシンをめぐるマスメディア報道が特定の論点に収斂していく過程を摘示した山口仁(2009)と、リスクの民主的管理におけるメディアの役割を強調した福田充(2010)が挙げられる。また、専門家と社会の乖離構造を指摘した藤垣裕子(2003)や、熟議の基礎となる専門知への社会的無関心に警鐘を鳴らしたトム・ニコルズ(2019)は、報道において「専門家」への依存がみられた今回の状況を考えるうえで示唆に富む。本研究はこれらの先行研究を参照しつつ、「不確実性」、「災害報道」、「マスメディア」、「専門家」の重なり合う領域における情報伝達のあり方について、今般の状況を事例として検証するものである。

【研究の方法】
①アンケート調査(全42問)は「Freeasy」のモニター会員(首都圏在住者・東北地方在住者100名ずつ、それぞれ10・30・50・70代以上10名ずつ、20・40・60代20名ずつ、男女同数)に対して、2020年6月22日から23日まで行われた。主な質問項目は、「具体的な情報が各メディアにおいて適切なタイミングで十分に提供されたか否か」、「信頼できる(/できない)専門家とその理由」、「信頼できる(/できない)テレビ番組(/新聞)とその理由」といった内容である。
②テクスト分析においては、アンケート調査のなかで「提供のタイミングや量が適切でない」と指摘された情報を中心に、実際の報道がどのように行われたか検証した。テレビ報道の分析にはNIIテレビアーカイブシステムを活用し、新型コロナウィルスをめぐる報道において「根拠」として用いられる指標に関する量的な分析を行ったうえで、他の自然災害報道との差異を検証した。新聞報道についても、データアーカイブを用いて同様の調査を行った。

【得られた知見】
アンケート調査から、以下の二点が明らかになった。
第一に、居住地の新型コロナウィルスに関する情報源として、東北地方の在住者はローカルコンテンツを利用できるのに対し、首都圏では全国ニュースが用いられていることである。各メディアにおける情報提供のタイミングと情報量の適切性を尋ねた設問のなかで、首都圏在住者が「自分の住んでいる地域の」情報が「どれも適切ではない」と回答していることと併せて考えると、このことは首都圏における「新型コロナウィルスに関する地元情報」の不足ないし不存在を示唆している。マスメディアは、首都圏在住者が現在の状況を「自分ごと化」するための助けとなる情報を適切に提供できていなかった可能性がある。第二に、新型コロナウィルスに関する報道が不信感を抱かれる理由は「憶測による情報を報道しているから」であった。この点において、オーディエンスからの「根拠に基づく情報」への欲求がみてとられ、それを解消するための一助となったのが「専門家」であった。メディアに登場する「信頼できる専門家」は、「根拠に基づいた意見を述べている」、「難しいテーマをわかりやすく解説している」ことが評価されている。他方、「信頼できない専門家」の特徴として、「根拠に基づかない意見を述べている」、「政府の方針をそのまま述べている」といった要素が挙げられた。
テクスト分析から、以下の二点が明らかになった。
第一に、災害報道には一定の「フォーマット」が存在することである。すなわち、新型コロナウィルスをめぐるマスメディアの失敗は、不確実性の高い災害を他の自然災害と同様のフォーマットにおいて報道したために、オーディエンスにおける災害の「自分ごと化」を促すことができなかった点に求められる。第二に、調査回答者が「信頼する」という「根拠」が、必ずしも科学的根拠とは限らないことである。それらが科学的正当性を有しているか政治的正統性のもとで現れているかを提示することは、不確実性の高い災害情報伝達におけるマスメディアの中心的な役割である。


新型コロナウイルスはどのように議論されたか―安倍首相の記者会見、読売新聞と朝日新聞の社説を中心に

朴 健植 (立教大学大学院 院生)

【キーワード】日本型ジャーナリズム、発表ジャーナリズム、客観的現実、質的言説分析

【研究の目的】
第1に、日本と世界各国の感染状況のデータを用いて、日本の新型コロナウイルスの「客観的現実」を確認する。第2に、今年2月から6月までの安倍首相の記者会見と、同期間の読売新聞、朝日新聞の社説を分析し、新型コロナウイルスに対しての感染状況の認識を明らかにする。第3に、安倍首相の記者会見と新聞社説のフレーミングの共通性を分析する。
研究仮説は次のようである。「客観的現実」をあまり反映していない可能性がある政府の感染状況のデータが、安倍首相の記者会見の根拠となり、またそれは新聞社説にそのまま継承されている。これは、「発表ジャーナリズム」として象徴される「日本型ジャーナリズム」の典型である。

【先行研究との差異】
第1に、「発表ジャーナリズム」として象徴される「日本型ジャーナリズム」への実証的分析である。「発表ジャーナリズム」は、原(1997)が最初に問題提起したと言われ、「客観報道主義」が持つ1つの弊害として指摘されてきた。箭川(1989)などもメディアの政府発表への依存について批判的であった。しかし、近年「発表ジャーナリズム」は、日本のメディアの限界であるという認識が当然視され、多くの研究が概念の説明だけに止まり、実証的研究が活発に行われてきたとは言えない。
第2に、新型コロナウイルスのデータを用い、「客観的現実」と報道による「象徴的現実」の差異を議論する点である。このような試みについて、大石(2005)は一定の学問的価値を認めた。一方、伊藤(2009)は、マックフローのフレーム論を議論する中で、2つの現実の歪みを「偏向と選択性の問題」に還元し、それはメディアの不回避的な特性であると述べた。しかし、本研究で、「客観的現実」と「象徴的現実」との差異を分析することは「日本型ジャーナリズム」を議論するための根拠となっており、それを単にメディアが持つ特性に還元することは妥当ではないと判断した。

【研究の方法】
第1に、日本の新型コロナウイルスの「客観的現実」を確認するために、今年7月初旬までのOxford大学の研究者らによる「COVID-19 Testing」のデータを用い、世界各国と日本の差異を分析した。更に、感染の状況をより現実的に比較するために、韓国のデータとも比較分析を試みた。
第2に、今年2月から6月までの安倍首相の記者会見(9件)と同期間の読売新聞(125件)、朝日新聞(94件)の新型コロナウイルス関連社説の分析を行った。
第3に、安倍首相の記者会見と新聞社説のフレーミングの共通性を分析し、「発表ジャーナリズム」として象徴される「日本型ジャーナリズム」を批判的に分析した。

【得られた知見】
第1に、世界のデータと安倍首相の記者会見を比較してみると、後者は日本の現状を正確に反映していない可能性が高いことがわかった。「COVID-19 Testing」のデータ(1月〜7月初旬)をみると、日本はPCR検査数(累計)が相対的に少なく、陽性率は高い水準であった。このような感染状況は、世界的にみても独特であった。そして、日韓のデータ(1月〜7月初旬)をみると、日本のPCR検査数(累計)は韓国の約3分の1の水準であったが、感染者数(累計)は約1.58倍であった。感染者数(累計)/PCR検査数(累計)は、日本は約3.83%、韓国は約0.96%であった。このような結果から、日本のデータは実際の感染状況を正確に反映しているとは言えない側面があると判断した。しかし、記者会見では、「世界的にも圧倒的に少ない感染者数」など、「客観的現実」との歪みが見られた。
第2に、新聞の社説分析から、新型コロナウイルス対策における政府の説明責任を巡る議論などで僅差が見られた。そして、共通的に緊急事態宣言の必要性、欧米諸国の都市封鎖との差異が強調され、検査能力拡充の必要性が議論された。感染状況については、「国民の自発的協力によって、感染爆発を回避できた」という認識で一致した。
第3に、記者会見と新聞社説を比較してみると、検査能力についての議論を除外して大差は見られなかった。記者会見においては、常に制御可能な水準の感染状況、十分な医療・検査体制などの認識が見られ、「日本モデル」の優越性が強調された。新聞社説においては、政府発表を根拠として感染状況が評価され、欧米諸国のような感染爆発の局面ではないことが強調された。
最後に、本研究から確認できたのは、記者会見と新聞社説から読み取れる感染状況に対してのフレーミングの共通性であった。具体的に言えば、それは「客観的現実」と程遠い楽観的な状況認識であった。また、「発表ジャーナリズム」として代表される「日本型ジャーナリズム」の典型であったと言える。


署名記事からみる福島原発事故報道―『毎日新聞』を事例に―

矢内真理子 (同志社大学 学習支援・教育開発センター)

【キーワード】毎日新聞、福島第一原子力発電所事故、署名記事

【研究の目的】
本研究の目的は、『毎日新聞』の福島原発事故報道をめぐる記事を再検討することである。特に本研究では署名記事に着目する。

【先行研究との差異】
先行研究では、署名記事にアプローチした研究と、原発事故報道に関する研究の2種類を整理する必要がある。第一に、署名を手掛かりに記事分析をおこなった先行研究にはEU圏の記事をどこの特派員が書いているかを分析した福井英次郎(「EU記事は誰がどこで書いているのか?読売・朝日・日経を事例として」2016年、『産研論集』pp.43-52)がある。第二に原発事故報道においては、遠藤薫(『メディアは大震災・原発事故をどう語ったか』2012年、東京電機大学出版局)や、伊藤守(『テレビは原発事故をどう伝えたのか』2012年、平凡社)がある。新聞を対象としたものには山田健太(『3・11とメディア』2013年、トランスビュー)をはじめ数多くあるが、署名記事を分析の対象とした研究はほとんどみられない。先行研究においては複数の新聞を比較する手法や、社説を対象としたアプローチがとられてきた。当時、各社において署名記事がそれほど根づいていなかった背景から、比較の要素となりにくかったのではないかとみられる。本研究においては、地域性が高く、なおかつ全国的にも重要な事柄である原発事故報道において、どれくらい地域に根差し、地域のことをよく知る記者が紙面にかかわっているのかを検討することで、書き手の専門性や所属などの背景を含めて立体的に紙面を理解しようと試みた。これが本研究の先行研究との差異である。

【研究の方法】
記事抽出にはデータベース「毎索」を利用した。キーワードは「原発」とし、期間は2011年3月12日から18日の1週間、面種は東京本社版と地域版の福島面とした。そのうち、閲覧できない記事があり、対象から除外した(東京本社版、6件)。結果、東京本社版245件、福島面15件が対象となった。1996年4月以来、署名記事を増やす方針が打ち出されていることと、研究対象期間において『読売新聞』や『朝日新聞』などに比べて、署名記事の割合が高かったことから対象とした。各日の記事数は東京本社版が12日11件、13日20件、14日25件、15日40件、16日53件、17日44件、18日52件で、福島面が12日0件、13日0件、14日0件、15日3件、16日4件、17日3件、18日5件となった。署名については毎日新聞社の人事異動に関する記事をもとに、署名から福島県をカバーする5つの支局と通信部(福島支局、郡山支局、いわき支局、会津若松通信部、南相馬通信部)に当時所属していた記者と、事故以前に所属していた記者を割り出した。福島の支局記者以外も、人事の記事と共に原発事故以前の記事を読み、記者の背景について考察した。

【得られた知見】
地域版の福島面においては、全ての記事が署名入りで、1件の記事につき、1人か2人の署名があった。書き手は、おおむね福島の支局の記者であるが、隣県の新潟、茨城の支局と推測される記者、そして東京本社の記者が名を連ねていた。12日から14日にかけての福島面での記事は0件であり、初出は15日である。
東京本社版においては、245件のうち、署名なしの記事は62件、福島の支局記者の署名記事は8件にとどまり、元福島の支局記者の記事は6件みられた。署名入りの場合、最大で1件の記事に12人の署名がはいっているものがあった。東京本社版における福島の支局記者・元記者の署名記事の割合は約5%である。東京本社版での福島の支局記者の記事が掲載されたのは14日が初出である。
あくまでも記事数・初出日からの推測だが、福島の支局の記者は、記者であると同時に被災者でもある。東日本大震災においては津波や地震の被害も同時に発生しており、原発以外の被害状況についても追いかける必要に迫られていた可能性がある。また、福島の支局記者は県民の代弁者ともいえる。例を挙げると、3月14日の東京本社版の記事「福島第1原発爆発 被ばく情報乏しく 避難住民「途方に暮れている」」では、情報がないままに避難せざるを得なくなった人々の不安な声を紹介しており、福島の人々の状況を全国に発信した。
結論として、福島の支局の記者は、被災の渦中にある中で、必ずしも原発事故の最初期の報道にコミットしていたわけではないこと、記事の内容も追いかけなければならない事柄や要素が複数あり、その中での原発事故記事となっていると結論付けられる。
(本研究は、JSPS科研費19K13928の助成を受けた)


「新しい生活様式」以前/以降のメディアと楽しみの技法へのアプローチ

司会者:秋谷直矩(山口大学)
問題提起者:團康晃(大阪経済大学)
討論者:小川豊武(昭和女子大学)
(企画:秋谷直矩会員)

【キーワード】新しい生活様式、楽しみの技法、メディア論、エスノメソドロジー

本ワークショップでは、メディアを介した趣味や楽しみを伴う活動の技法の記述的研究について、とりわけ(1)人びとの実践のアーカイブの問題と(2)現象の記述の仕方(方法論)に焦点化し、議論することを目的とする。以上の目的のもとでワークショップを企画するにあたり、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による「新しい生活様式」の要請がフォーマル/インフォーマルに飛び交う現況に立ち、その来し方行く末もあわせて考えていきたい。
趣味、あるいは楽しみのための活動の研究はさまざまな分野・トピックにおいて議論されてきた。たとえばそれは、レジャー・スタディーズ、若者論、メディア論、ソーシャル・ネットワーク論など多岐にわたる。これらの分野での議論はそれぞれ独立に展開してきたというよりは、緩やかに相互参照しながら、折に触れて「人びとにとって趣味(あるいは楽しみを伴う活動)とは何なのか」を問い直してきた。そして、現代社会における趣味、あるいは楽しみを伴う活動の機能を明らかにしてきた。他方で、「人びとが実際に趣味(あるいは楽しみを伴う活動)を組織しているのか」−−−つまり、「技法」の実践的組織の問題は、趣味や楽しみを伴う活動を通して現代社会を理解しようとする試みに比較して、さほど積極的に蓄積されてきたわけではない。
しかしながら、「新しい生活様式」に即した生活の再編は、居住空間のオフィス化、オンラインベースのコミュニケーションの増大、身体性の希薄化、対人コミュニケーションを前提とした活動の制限など、多岐にわたる変化を私たちに進行形で経験させている。その渦中において、多くの趣味や楽しみを経験する場・ツールとしてのメディアの重要性に注目が集まっており、また、「新しい生活様式」に対応した実践の組織は多く見られる。そして、そこでは、メディアを介した趣味や楽しみを伴う活動の技法について、さまざまな人が、さまざまな場所・メディアで、実践し、記述している。「変化」や「問題化」の渦中にある人びとによる趣味や楽しみを伴う活動の技法の記述は、人びとが社会を−−−ひいては社会における趣味的活動をどのようにとらえていたのかを生々しく記録したものであり、後世にとって非常に重要な「痕跡」となるだろう。他方で、それは「非常時」だからこそのものであって、「平時」はまた異なった様相であろう。
こうした状況のただなかに身を置いて思うことは、メディアを介した人びとによる趣味や楽しみを伴う活動の技法の記述に対して、我々研究者はどのように向かい合っていくべきか、ということである。たしかに、メディアを介した趣味や楽しみを伴う活動の技法は、「変化」を余儀なくされたときや「問題化」された状況においてこそ、当事者たちにとって「記録」する動機が生まれるもののようである。一方で、平時においては、その当然性と状況の限定性・固有性ゆえに、わざわざ言語化して記録して残しておこうという動機が生じにくいものでもあるだろう。やや踏み込んで言えば、非常時や(世間において)問題化された時は、研究者にとっては記録し分析する契機として非常に資源に富み、その価値も認識しやすいが、平時においては必ずしもそうではない。しかし、ある時点での「以前/以降」の様相を詳細に理解しようとするならば、非常時や(世間において)問題化された時のみを対象とするのではなく、平時より緻密で入念な記録と分析が重要になることは論を俟たないだろう。
そこで、本ワークショップでは、コロナ禍を契機とした平時・非常時におけるメディアを介した趣味や楽しみを伴う活動の技法を対象とした場合の(1)人びとの実践のアーカイブの問題と(2)現象の記述の仕方(方法論)を共通課題とし、メディア史の立場から松井広志氏(愛知淑徳大学)に、エスノメソドロジーの立場から團康晃氏(大阪経済大学)に問題提起してもらう。そして、両者の立場に通暁する小川豊武氏(昭和女子大学)を指定討論者とし、両者の問題提起を受けた応答をしてもらう。以上のやり取りを踏まえ、フロアとも積極的に議論を進めたい。


「アイドル研究」研究―「アイドル」文化におけるマス・メディアの位置づけとその変容に着目して―

司会者:石田万実(同志社大学)
問題提起者:田島悠来(帝京大学)
(企画:メディア文化部会)

【キーワード】アイドル研究の研究、空間の多層化、メディア・コンテンツ横断的な受容、プラットフォームの構築

1970年代の黎明期から数えて50年。日本の「アイドル」はメディアのなかで育まれ、特有のイメージや受容のなされ方は一つの文化として社会に根を下ろし、今や国内外問わず多くの熱狂的なファンを有するに至っている。同時に、「アイドル」に関する学術的関心は、国内において1980年代終盤からみられはじめていたが、殊にソーシャルメディアの普及、それに伴う「アイドル」関連コンテンツの広がり、「アイドル」とファンとのコミュニケーションのあり方の変化が著しい昨今、若手研究者(大学院生、学部生を含む)を中心により一層の高まりをみせ、論点も多様化してきている。
一方で、‘「アイドル」研究’は、一部のマニアックな好事家による評論や関連資料の収集、アイドル経験者によるエッセイ、メディア業界側からの真偽が不確かな暴露話の類まで幅広く含有する用語として認識される傾向が未だに根強い。また、好きなことをファン目線で追及することとアカデミックな問題意識をもって研究することとの区別が儘ならないともすれば明確なモチベーションを持たない学生の逃げ場のような領域になってしまっている感も否めず、明確な問題意識を持っていても、参照軸となる「アイドル」研究にたどり着けずに途方に暮れてしまうケースも見受けられる。これらは、学術的な研究の整理とその共有の場が築かれておらず、そもそも「アイドル」を研究する意義についての議論がこれまで十分になされてこなかったことに起因するのではないだろうか。
そこで、本ワークショップでは、「アイドル」は、これまでどのような語り口で誰に語られてきたのか、また、語られてきていないのかを主に人文・社会科学系の先行研究レビューに基づいて整理していく。その上で特に、マス・メディアとの関わりに焦点を当てて議論していきたい。2010年代以降、上述のようにソーシャルメディアが発展し、「アイドル」関連の情報はマス・メディアを通じて発信、受容されるのみではなくなり、ファンとの双方向性が叫ばれ始め、マス・メディアを媒介としたコミュニケーションの覇権的な立ち位置は揺らいでいっている。また、女性アイドルグループAKB48の台頭以降、「アイドル」とファンとが直に会い交流する「接触」、「アイドル」パフォーマンスがなされるライブエンターテインメントの「現場」へ視線が注がれるなかにあっては、マス・メディアの位置づけは益々相対化されていっている。
他方、2010年代後半に入りAKB48にかわって若年層に多くのファンを獲得している坂道グループや多種多様に応援する対象を拡大させるようになったファンの消費行動、受容態度に目を向ければ、近年の「アイドル」を語る際の言説のなかで度々現れるようになっていたソーシャルメディアのマスに対する優位性、「現場」至上主義的なあり方、「ソーシャルメディアVSマス・メディア」といった二項対立・二律背反にとらわれていては見逃されてしまいがちな、「アイドル」とメディアとの現代的な関わり方、「アイドル」をめぐる空間の多層化、コンテンツ横断的な受容状況がみえてくる。
本ワークショップは、『「アイドル」のメディア史:『明星』とヤングの70年代』(森話社)の著者であり広く「アイドル」関連のコンテンツの分析、調査に携わってきた田島悠来会員から以上の問題提起に則ってアイドル研究の研究に関する報告を行い、参加者同士でディスカッションを行いながら、「アイドル」研究の学術的なさらなる発展に向け、関連分野に興味を抱く参加者間のプラットフォーム構築の場となることを目指す。


ネットワーク社会における企業の広報広告戦略とマスメディア

司会者:国枝智樹(上智大学)
問題提起者:青﨑曹(株式会社マテリアル)
討論者:奥律哉(株式会社電通)
(企画:ネットワーク社会研究部会)

【キーワード】広報戦略、パブリシティ、テレビ広告、インターネット広告、広告費

インターネットの台頭に伴う新聞離れ、テレビ離れはマスメディアの経営やコンテンツ制作のあり方に大きな影響を与えている。企業が人々のメディア利用行動の多様化、複雑化に広報広告戦略を対応させた結果、マスメディアの広告収入は減少している。広告収入の減少は取材や番組制作予算の削減をもたらし、2兆円近い広告費を維持しているテレビでもコストを抑えた番組作りが目立つようになっている。しかし、詳細な広告費などのデータが公開され、その推移が注目されてきた広告に対し、記事や番組への露出を試みるパブリシティ活動やソーシャルメディアの運用に代表される広報は、詳細なデータがほとんど存在せず、その推移を把握することが難しいこともあって、ほとんど議論されてこなかった。本ワークショップでは、ネットワーク社会における広報と広告の変遷について議論をすることで、現状を理解し今後の展望を描くことを試みる。
2019年の『日本の広告費』によると、インターネット広告費が初めて2兆円台に達し、テレビメディア広告費を超えた。インターネット広告費の内、1兆円超はターゲットを個人にまで絞った「運用型広告」が占めており、マスではなく個人を対象とした広告が勢力を増している。また、複数のウェブサイトで同じ広告が表示される「リターゲティング広告」が普及したことにより、ネット上の様々なサイトがネットワークとして機能し、個々人に購入を促す。ただ、インターネット広告費の中にはターゲットを意識して展開されているウェブサイトの運営や、ソーシャルメディアを通した企業と人々の間のコミュニケーション活動の費用が必ずしも含まれていない。しばしば低コストで展開されるソーシャルメディア上のキャンペーンなどは、その規模や件数の変遷を捉えることが難しい。
ウェブサイトやソーシャルメディアの運用は広告よりも広報として語られることが多い。現実には、企業の広報部門の主な業務はネットの普及した現在でも企業とジャーナリストや番組制作者などとの関係を維持、構築するコミュニケーション活動としての「メディア・リレーションズ」である。広報戦略上、マスメディアの影響力は依然として大きく捉えられており、記者会見への対応といった活動の重要性は変わっていない。むしろ、取材協力などを通したメディアと企業のタイアップ企画は増えている。マスメディアとインターネット、それぞれで展開される広報、広告活動が戦略的に連動していることも珍しくなくなっている。
本ワークショップでは、インターネットの重要性がますます高まる現在における、企業とテレビの関係の変遷と今後について特に重点を置き、議論する。まず、広報広告戦略の最前線について、PR会社マテリアルの青﨑曹代表取締役社長に報告をしていただく。また、電通メディアイノベーションラボ統括責任者の奥律哉氏をお招きし、広告費の変遷に注目されてきた立場から、討論者として議論していただくことによって、複雑化する実態を複合的な視点から捉える。


民放アーカイブの利活用に向けて-『NNNドキュメント』を事例に-

司会者:丸山友美(福山大学)
問題提起者:丹羽美之(東京大学)
討論者:谷原和憲(日本テレビ放送網)
(企画:放送研究部会)

【キーワード】テレビ、アーカイブ、ドキュメンタリー、現代史、産学連携

1953年に日本でテレビの本放送が開始してから、60年以上の時間が経過した。その間、テレビは多くの番組を制作・放送し、時代を生きる人々の姿と社会を記録してきた。そうした意味で、テレビ番組は放送史を検証するだけでなく、現代史を検証するための貴重な歴史資料と言える。フランスの国立視聴覚研究所(通称INA)といった諸外国の取り組みはそれを具体化しているが、日本は番組アーカイブの思想が根付くまでに時間を要したことから(長井暁(2008)「世界の映像アーカイブの現状と課題」『放送研究と調査』59(3):46-59)、番組を収集・保存し、それを研究・教育に活用する方策をなかなか確立することができないでいる。
近年、その最たる課題として指摘されているのが、「民放アーカイブの貧困」だ(丹羽美之(2013)「民放もアーカイブの公開・活用を!」『月刊民放』43(11):24-28)。現在のところ、NHKの運営するNHKアーカイブス(川口市)と比べると、民放アーカイブの収集・整備とその公開は進んでいない。公益財団法人放送番組センターの運営する放送ライブラリー(横浜市)にはNHKと民放各局の番組が収集・保存・公開されているが、その選定基準によって日本で放送されたあらゆる番組を体系的にアーカイブしているわけではない。したがって、公開の進まない民放の番組を利活用する方途は未だ確立されていないというのが実状である。
民放アーカイブの遅れは、アーカイブを利用する研究の弱点にもなりうる。丹羽は、その問題点として次の二つを指摘する。第一に、「公開が進まない民放については、活用は依然として停滞したまま」であり、「このままでは(少なくとも研究・教育の世界では)民放の歴史はなかったことにされてしまう」ということ。第二に、現在運用されているテレビアーカイブの多くは、「中央集権化した放送産業の実態をそのまま反映するかのように、東京発の番組に偏っている」ため、「放送史・現代史は東京中心に語られ、地域の多用な視点が抜け落ちてしまう恐れがある」(丹羽美之(2018)『科学研究費助成事業研究成果報告書(課題番号26285106)』)ということだ。
こうした課題に対して、民放アーカイブの整備とその利活用のモデルケースとして、丹羽たちが日本テレビ系列各局と協力して2012年から取り組んできたのが『NNNドキュメント』共同研究である。『NNNドキュメント』は、日本テレビ系列の全国29局が制作するドキュメンタリー番組で、日本で最も長い歴史をもつ。1970年の放送開始以来、これまでに放送された番組は2500本以上にのぼり、2020年1月には50周年を迎えた。同番組は、日本のテレビ番組で最初に国際エミー賞を受賞した「明日をつかめ!貴くん〜4745日の記録〜」をはじめ、数多くの優れた番組や個性的な作り手を輩出したことでも知られる。また、全国のローカル局が制作に参加する『NNNドキュメント』は、地域社会や地域ジャーナリズムの貴重な記録でもある。
この共同研究は、NNN各局の全面的な協力を得ることで、過去の放送番組をデジタル化してアーカイブを構築し、それを初めて研究に利用した先駆的な取り組みである。その成果は、丹羽美之編『NNNドキュメント・クロニクル 1970-2019』(東京大学出版会、2020年)としてまとめられており、今後、民放番組のアーカイブ化とその利活用の方途を構築するうえで多くの示唆に富む。こうした共同研究は研究者と番組制作者の双方にどのような意義があり、そこではどのような課題が確認されたのだろうか。
本ワークショップでは、この共同研究のプロジェクトリーダーである丹羽美之会員を問題提起者に、『NNNドキュメント』元プロデューサーの谷原和憲氏を討論者にお招きし、民放の番組を利活用する意義や課題について議論したい。具体的には、①未整備の番組群を研究する学術的な意義、②研究者と番組資料を共有・活用するメディア産業的な意義、③『NNNドキュメント』プロジェクトを通じて発見された課題の3つについて議論したい。


学会名称に関する懇談会 企画趣旨

司会:土屋礼子(理事)
春季に試行実施された懇談会での議事概要報告:津田正太郎(総務担当理事)
学会名称変更及び規約改正の方向についての説明:吉見俊哉(会長)
その後に参加者全体での討論

1993年に日本新聞学会から日本マス・コミュニケーション学会へと名称変更が行われてから四半世紀あまりが過ぎた。その間、インターネットの普及を背景としたメディア環境の激変により、本学会の会員による研究も多様化し、学会名称と研究領域の不整合が目立つようになってきた。
今期理事会では、学会名称の再検討を重要な課題とし、今年1月から2月にかけて会員からパブリック・コメントを募集した。寄せられたコメントや集計結果はすでに学会ウェブサイトにおいて公開されている。そこにあるように、コメントの圧倒的多数は変更を支持するもので、新たな学会名称が求められている事実は否定しがたい。
とはいえ、名称はまさに学会のアイデンティティを示すものであり、時流に流されて場当たり的に変えていくことがあってはならない。会員による研究の多様性を維持、発展させるのが必要なのは言うまでもないが、本学会が何に取り組み、何を明らかにしようするのかという問題関心を共有し、議論を深めていくことは学会として不可欠の課題である。
また、本学会の重要な特徴は、研究者のみならず報道や番組制作に実際に携わる会員を数多く擁している点にある。そのことがアカデミズムとジャーナリズムの結節点としての役割を果たすことを可能にしてきており、この結びつきはネット社会のなかでさらに発展深化させられていかなければならない。
こうした認識もあり、今期理事会では、本学会の歴代会長で構成される総務委員会も開催し、元会長の先生方からパブリック・コメントの結果を踏まえたご助言も頂戴した。
さらに、私たちはすでに春季研究発表会に代替して実験的に行われたオンライン会議において、名称変更について議論するオンライン懇談会を試行実施した。そこでは、学会名称変更の必要を理解する声とともに、学会名称変更は学会活動のあり方の改革やその活動内容についての規約改正を含むものでなければならないというご意見もいただいた。この懇談会でいただいた議論については理事会でも紹介、検討してきた。
このように、1年以上にわたる検討を経て、第37期理事会として、2020年度秋季大会において、新名称および今後の学会のあり方を議論する懇談会を実施する。懇談会では、学会長より日本語および英語の新名称についての理事会での検討の方向性を説明し、また名称変更に伴い必要になる規約改正の内容についても説明する予定である。
新型コロナ・ウィルス感染症拡大の影響で、本来ならば対面で実施する予定であった懇談会がオンライン開催になってしまったのは誠に残念だが、第37期の目標として掲げた本件について、これまでの議論と今後の方向性について真摯に説明し、全学会員のみなさまから率直なご意見、ご質問をいただきたいと考えている。


パンデミックをめぐるメディアと社会――その可能性と困難――

司会者: 石田佐恵子(大阪市立大学)
問題提起者: 澤康臣(専修大学)
松井広志(愛知淑徳大学)
柴野京子(上智大学)
討論者:永田夏来(兵庫教育大学)
伊藤昌亮(成蹊大学)

 新型コロナウィルス感染症(covid-19)のパンデミックは、メディアやコミュニケーションのあり方に大きな影響を与えている。「外出自粛」に伴い、「テレワーク」や「オンライン授業」は急速な広がりを見せた。
テレビにおいては、ニュースのみならず、お笑い番組、さらにはドラマまでが「リモート」で製作されるなど、実験的な試みが行われたほか、過去の番組の再放送・再編集も多く見られた。これらは従来のメディアのありようを問い直すものでもあった。記者クラブ等の「場所」に規定されていた取材のあり方は、必然的に変化を迫られ、それらに頼らないジャーナリズムのあり方が模索されつつある。ネットでは、「Stay Home」に関するさまざまな動画がアップされ、多くの人々を惹きつけたが、そのことはこれまでのテレビのあり方を自省させることにもつながった(NHK総合「いま、テレビができることって? あたらしいテレビ 徹底トーク2020」2020年5月10日など)。出版においても、定期刊行のみならず、(書店かネットかを問わず)流通そのものの困難も見られた。そのことは、ネット通販のあり方や「電子化」をめぐる議論を加速させる可能性を内包している。
メディア文化に関しては、ライブのような場所に規定された音楽文化は継続が困難になっただけでなく、「クラスター発生源」としてバッシングを受けるむきもあった。しかし、YouTubeやInstagramなどのソーシャルメディアを用いて、ネット経由でオーディエンスとつながり、オーディエンスを広げる動きも見られた。さらに、ゲーム文化に関して、Nintendo Switch用ソフト『あつまれ どうぶつの森』(2020年3月発売)が1000万本以上の売上を記録している。これは、他の多人数参加型ゲームの人気とともに、それ以前からあったコミュニケーション指向がより強まったことのひとつの現れだと考えられる。
その一方で、パンデミックをめぐるメディア変容には、幾多の社会的なひずみがつきまとっていた。先の「テレワーク」にしても、医療従事者や介護従事者はむろんのこと、中小製造業などに従事する人々、ネット通販で購入された商品を運ぶ宅配事業者は、在宅勤務が不可能だった。情報技術に支えられた「テレワーク」は、それが困難な人々があって可能となる側面があった。かりに「テレワーク」が可能な業務であっても、「社外でのアクセス権限を認められない」などの理由で、正社員に認められた在宅勤務が契約社員には適用されず、従来通りの通勤が強いられることもあった。また、「外出自粛」下では、DVの増加傾向が見られたし、子育てや自宅介護と「テレワーク」の両立の負担もときに指摘された。さらに言えば、「テレワーク」「オンライン授業」の前提となる通信環境や情報機器の所有状況についても、さまざまな格差がある。「テレワーク」に代表される情報技術の恩恵は、万人に広がっていたわけではない。
監視や排外主義の動きも見落とすべきではない。「テレワーク」の広がりによって、私的領域に労働が浸潤し、自宅に居ながら監視される労働環境が生まれつつある(「オンライン飲み会」も含めて)。さらには、営業を「自粛」しなかった商店や、外出する人々(とくに若者層)へのパッシングは、ネット空間のみならず、現実社会でも色濃く見られた。その相互監視は、関東大震災時の自警団や戦時下の隣組を連想させ、人々が「自主的」に「自粛」を強制させ合う様相を呈している。当初は中国大陸での感染拡大が大きく報じられたこととも絡んで、排外主義的な言説が生み出される傾向もある。
では、パンデミックに伴うメディア変容の可能性と困難を、どのように考えたらいいのだろうか。「外出自粛」が解かれたとしても、そのメディア環境やコミュニケーションの環境は、おそらく従来とは異なるものになるだろう。「テレワーク」や「オンライン会議」はある程度定着するだろうし、テレビ文化や音楽文化、ジャーナリズムのあり方も変化していくことだろう。だとすれば、それを近現代のメディア史において、どう位置づけたらいいのか。今回のメディア社会の変容は、たとえば震災(東日本大震災、阪神淡路大震災など)のそれと比べて、何が同じで何が違うのか。あるいは、問題点が指摘されながら、ずっと棚上げされ続けていたのか。
こうした状況に、さらに進んだグローバル化とGAFAやFAANGと呼ばれる巨大なIT企業の存在を重ね合わせた時に浮かび上がる問題群もあるだろう。巨大IT企業は「プラットフォーム」を提供することで、メディア産業だけでなく、それが基づく経済構造に働きかけ、個人と社会の関わり方そのものを変えている。新しいメディア文化が生み出される一方で、個人情報や著作権保護、市民の相互監視といった問題は、新しい形でより広範に影響が生じつつあるのではないだろうか。
本シンポジウムでは、以上のような論点を念頭に置きながら、「パンデミックとメディア」をめぐるさまざまな問題系を浮き彫りにしたい。本来、シンポジウムでは一定の広がりを有する論点を扱いながら、議論を深め、収斂させていくものではあるが、本シンポジウムは、必ずしもそれを志向するものではない。感染拡大から約半年後の現在において重要なのは、さまざまな問題系を広くあぶり出し、問題系相互の関係性を論じ合うことにある。その意味で、本シンポジウムは議論を「収束」させるのではなく、むしろ意図的に「拡散」させ、個々の会員が広く「パンデミックをめぐるメディアと社会」を考える糸口となることをめざしたい。